この箇所で、ヨブは本当に失望していました。それは、ヨブの大切なものをすべて奪われてしまったからです。
ヨブの子供たちは亡くなり、妻の心は苦々しく、ヨブの持ち物はすべて失われ、さらに彼の体には悪性の腫瘍が満ちていました。
このような状況では、誰でも心が折れてしまうのは不思議ではないと思います。そして、ヨブは自分の感情を表現しました。彼は自分の誕生日を呪い、生まれたときにどうして死ななかったのかと嘆きました。
ヨブは自殺したかったわけではないと思いますが、眠るたびに、「決して目覚めなければいいのに」と思っていたのです。
それでも、毎日目覚め、彼の状態は依然として厳しいものでした。そして、彼はこう思いました。「なぜ、苦しんでいる人々はそのように生き続けなければならないのでしょうか。つまり、どうして悔しく、苦い人生を生きなければならないのでしょうか。」
そして、ヨブは問いかけました。
神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、なぜ、光が与えられるのだろう。(ヨブ記3:23)
つまり、私は自分の人生の目的が見えません。私は問題ばかりで、それがずっと続いているのに、どうして神様がこの命を与えてくださったのでしょうか。
最後に、ヨブはこう言いました。
実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。
私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。(24-26)
それは、ヨブの地上からの視点でした。
けれども、天の視点はどうでしょうか。なぜかは分かりませんが、ヨブはその視点を決して見ることがありませんでした。ヨブは、神様が天使とサタンの前でヨブを誇られたことを全く知りませんでした。
また、神様がその試練を許された理由は、ヨブに敵対していたわけではありませんでした。むしろ、神様はヨブがこの試練を乗り越えられると確信していたので、その試練が起こることを許されたのです。
しかし、神様はその理由をヨブに一切教えられませんでした。
さらに、大変なことが起こっても、神様がヨブの人生の上にその御手を置いておられたことをヨブはまったく知りませんでした。
サタンはヨブを完全に破壊したいと願っていましたが、神様がそれを許されませんでした。しかし、それさえもヨブには教えられませんでした。
私たちも試練に直面するとき、なぜそのような悪いことが起こるのかを理解できないことがあります。そして、神様が私たちに反対していると思うかもしれません。神様がもう私たちを愛しておられないと思うかもしれません。あるいは、神様が私たちのことを気にしておられないと思うかもしれません。
けれども、どうか忘れないでください。神様の私たちに対する愛は決して止まることはありません。それどころか、神様は誇りある父として私たちを考え、信じておられることを覚えておきましょう。
また、何が起こったとしても、神様は守りの御手を私たちから取り去られることはなく、私たちが耐えられない試練を決して許されないことを覚えておきましょう。
パウロはこのように書きました。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント10:13)
