この箇所では、ヨブのフラストレーションが神様に対してあふれ出しました。ヨブは神様の主権を認めていましたが、それでも神様が非常に遠い存在に感じられ、自分が捨てられたように思えていました。
そのため、ヨブはこう言いました。
たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。
ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか」と言いえよう。(ヨブ記9:11-12)
それに、ヨブは神様が自分を苛めていると思っていました。
たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。
神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、
私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。
もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。(16-19)
また、ヨブには神様が自分の惨めさを喜んでいるように感じられました。
にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。(23)
ヨブにとって、最も辛かったのは、神様が不公平に思えたことでした。
みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。。。
地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。(22,24)
ヨブを批判するのは簡単です。けれども、おそらく、ほとんどの人々はヨブのような苦しみに直面したら、同じように感じるのではないでしょうか。一番信仰の強いクリスチャンでさえ、そう感じる可能性があります。
しかし、この箇所で私たちが覚えておくべきことがあります。一つ目は、神様の前に立って「私は全然悪いことをしたことがない」と言える人は誰もいないということです。
ヨブはこう言いました。
まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。
たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられない。
神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。(2-4)
多くの人々は、裁きの日に神様の前に立ち、自分の人生について申し開きができると思っています。けれども、その日には、神様が私たちの悪い思いと行動のすべてを明らかにされます。
それだけではなく、良いことをする機会がありながら何もしなかったことも明らかにされます。そのとき、私たちは神様の聖なるご人格と比較して、自分がいかに罪深いかを知り、自分自身を申し開くことができないことを悟るのです。そして、私たちの言い訳や申し開きの空しさが明白になるでしょう。
その日、多くの人々は、ヨブのようにこう言います。
いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交わせようか。
たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。(14-15)
ヨブは、自分が無実であっても、無罪の人として神様の前に立つことができないことを理解していたため、叫びました。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。
神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。
そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。(33-35)
ヨブには、そのような仲介者がいませんでした。しかし、私たちにはいます。パウロはこのように書きました。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。(第一テモテ2:5-6)
また、
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。(ローマ8:34)
神様の前で、誰も無罪の人として立つことはできません。私たちは皆、裁きを受けるに値します。しかし、イエス様は私たちの仲介者です。
イエス様は天の父にこう言われます。「私はその人の罪のために支払いをしました。」
それゆえ、天の父は私たちにこう言われます。「あなたはもう罪に定められていない。あなたは赦された。」
それだけではなく、イエス様は私たちのように苦しんだ経験をお持ちです。けれども、私たちと異なり、イエス様は罪がないにもかかわらず、苦しまれました。
だからこそ、イエス様は私たちの苦しみを理解されています。私たちの痛みをわかり、混乱を理解し、捨てられたと感じる思いをも共感してくださいます。
なぜなら、イエス様は人間として私たちと同じすべての感情を経験されたからです。
ヘブル人への手紙の著者はこのように書いています。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(へブル書2:18)
また、
私たちの大祭司は「つまり、イエス様」、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル書4:15-16)
