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ヨブ記

神様は私たちを罰する機会を待っておられるのでしょうか

ヨブ記10章

この箇所で、私がヨブの文句を読むと、多くの人々の考え方が浮かび上がってくるように感じます。ヨブはこう言いました。

あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。

しかし、あなたはこれらのことを御心に秘めておられました。私はこのことがあなたのうちにあるのを知っています。

もし、私が罪を犯すと、あなたは私を待ちもうけておられ、私の咎を見のがされません。(ヨブ記10:12-14)

また、

あなたの日々は人間の日々と同じですか。あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。

それで、あなたは私の咎を捜し、私の罪を探られるのですか。(5-6)

ヨブのように、多くの人々は、神様が私たちの罪を犯すのを待っていると思っています。そして、私たちの罪を見ると、神様が喜んで私たちを罰すると考えています。

もちろん、もし私たちが良いことをすれば、神様が私たちを祝福すると信じています。しかし、もし私たちがたった一つの悪いことをすれば、「どかん!」と神様が私たちを罰すると感じています。

けれども、神様はヨブに対して、全くそのようには考えておられませんでした。ヨブ記1~2章にあるように、神様はヨブを責めておられませんでした。むしろ、サタンがヨブを責めていました。神様はヨブを擁護されていたのです。

今でも、誰かが私たちを責めるとき、神様は私たちを擁護してくださいます。以前のブログでそのことについて読んだことがありますが、もう一度確認してみましょう。パウロはこのように書きました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。。。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。 (ローマ8:1,33-34)

ですから、「神様が私たちを罰したいから、私たちのミスを待っている」という考え方は捨てましょう。

神様は私たちを擁護してくださる方です。そして、もし私たちが神様の子供であるなら、決して罪に定められることはありません。

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