ヨブ記の中で、これは少し驚くべき箇所です。なぜなら、ヨブはイエス様のことを全く知らなかったにもかかわらず(もちろん、イエス様はまだお生まれになっていませんでした)、贖い主を信じることを叫んだからです。
最初に、もう一度触れておきますが、ヨブの友達はヨブの本当の状態を理解せず、ヨブを支えようとはしませんでした。そのため、ヨブはその友達を批判しました。
けれども、その中で、ヨブは叫びました。
どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ記17:3)
ヨブが何を言っているのか、少し分かりにくいです。「保証すること」と「誓うこと」というのは、どういう意味でしょうか。旧約聖書では、これらには三つの意味があります。
まず、創世記では、ユダが自分の命をかけてベニヤミンの命を保証しました。彼は父ヤコブにこう言いました。
私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。(創世記43:9)
だから、ヨセフがベニヤミンを自分の奴隷として取ろうとした時に、ユダは「ベニヤミンの代わりに私を奴隷にしてください」と願っていました。
もう一つの意味があります。日本のように、もし誰かがローンを組みたい場合、時々保証人が必要です。もしお金を借りた人が返済しなければ、その保証人が代わりに支払います。
しかし、この箇所では、多分別の意味があります。もし誰かが犯罪に問われた場合、時々ある人がその人のために保証をします。つまり、「この人は無罪だと思う」と誓うのです。
なぜそのようにしたのか、私たちにはわかりません。それは裁判官の要求だったのかもしれません。
もし誰もその人の保証をしなければ、裁判官は有罪と判断するかもしれません。さらに、その人が有罪であっても、その報いを支払えない場合には、保証人が代わりに支払うこともあり得ます。
ヨブの言葉は本当に興味深いです。なぜなら、神様は保証人を要求する裁判官でありながら、ご自身が保証人であられるからです。
イエス様こそが私たちのためにそのようにしてくださいました。イエス様は神様でありながら、天の父がすべての裁きをイエス様にゆだねても、なお私たちの保証人でいてくださいます。
そして、神様は私たちの罪をご覧になり、私たちがその報いを支払うことができなかったので、イエス様はご自身の血でその代価を支払われました。
神様への嘆きの中で、ヨブは叫びました。
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。(25-27)
ヨブ記を読むと、時々「ヨブは永遠の命を信じていたのだろうか」と思います。
彼の感情によって意見が変わったように見えることもあります。けれども、この箇所で、彼ははっきりと宣言します。「私は死んでも生きる。その時、私の贖い主は私を弁護してくださる。」
私たちも同じ希望を持っています。たとえ試練があっても、後の日に私たちの贖いは地上に立たれるのです。その日、天の父の前に立ち、私たちのために弁護して、「この人の罪のために、私はすでに支払いを済ませました」と言われるのです。
だからこそ、パウロが言ったように、キリスト・イエスにある私たちは、罪に定められることが決してありません。(ローマ8:1)
少し古いけれど、私の大好きな歌があります。
贖い主がいます。
神様の子イエス・キリストです。
神の尊い子羊、救い主、 聖なる方。イエス様、私の贖い主、
すべての名にまさる名前。
尊い神の子羊、救い主、
罪人の希望、
罪人のために殺された。私は栄光の中で立つときに、
イエス様の顔を見ます。
私の王に永久まで仕えます
その聖なるところで。私のお父様、感謝します。
あなたはご自分の子を送ってくださいました。
そして、あなたの聖霊を残してくださいました。
この世界で、あなたの御業が終わるまで。ーーキース・グリーン
