残念なことに、エリパズは再びヨブを責めました。だから、ヨブは言い続けました。「もし私が罪を犯したのなら、どの罪を犯したのか教えてください。」
そして、ついにエリパズは具体的にヨブの罪について語り始めました。けれども、問題は、それがすべて冤罪だったことです。
そこで、ヨブは再び神様の前での裁判を求めました。彼はこう言いました。
ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。
私は御前に訴えを並びたて、ことばの限り討論したい。
私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。
神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。
そこで正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。(ヨブ記23:3-7)
ヨブはもう一度、自分の無実を宣言しました。また、ヨブは神様の公平さを信じていることも明言しました。ヨブは心の中でこう考えていました。「もし神様と論じ合うことができたなら、きっと私は正義を勝ち取るだろう。」
けれども、その後で、ヨブはこう言いました。
ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。(ヨブ記23:8-9)
つまり、ヨブはこう叫びました。「神様!あなたはどこですか?私が苦しんでいるのに、あなたはどこにおられるのですか?どうして、あなたは私に敵対しておられるのですか?」
これが、見えない神様との関わりにおけるフラストレーションです。時には、試練の中でも神様の臨在を感じ、慰めを得ることがあります。
しかし、時には神様がとても遠く感じられることもあります。その理由は私たちには分かりませんし、神様も説明されることはありません。
私たちは祈りますが、その祈りが神様に届かないように思える時があります。聖書を読みますが、神様が何も語られないように感じることもあります。そんな時、ヨブのように私は問いかけます。
「どうして、あなたは私に敵対しておられるのですか?私は悪いのでしょうか?もしそうなら、どうか私に教えてください。」
そのような状況で、私たちはどうしたら良いのでしょうか。簡単な答えはありません。
しかし、私がヨブを尊敬しているのは、彼が神様に疑問を投げかけ、神様が彼を捨てられたと思い、さらには神様が彼を迫害されていると思ったにもかかわらず、ヨブが決して神様を見捨てることはないと信じていた点です。
そして、ヨブの問いと苦情、苦しみの中で、彼は信仰に基づき次のような言葉を残しました。
しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:10)
だから、辛い試練を経験しても、ヨブは続けてこう言いました。
私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。
私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。(23:11-12)
私たちも同じ態度を取らなくてはなりません。たとえ神様が遠く感じられる時や、神様が私たちに敵対しておられるように思える時でも、私たちは神様にすがりつくべきです。
また、神様の慈しみを信じ続けなくてはなりません。そして、神様が公平な方であることを疑わず信じ続けるべきです。そしてもう一つ、私たちが今苦しんでいたとしても、最終的には金のように純粋にされるという希望を持ち続けることです。
だから、試練が訪れても、神様に背を向けないでください。たとえ神様を見つけられないように思える時でも、神様のことをあきらめないでください。
神様の言葉を心に蓄え、その言葉を手放さないでください。そして、神様を求め続けましょう。
そうすれば、ヨブのように、あなたも再び神様を見出す時が来るでしょう。
