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ヨブ記

ヨブの最後の弁解

ヨブ記27-31章

ヨブはこの箇所で、一番長いスピーチをします。それはヨブの最後の弁解です。

27章では、ヨブはもう一度こう言います。「私はこの苦しみに値していない。」そして、彼はその友達についても語ります。

私の敵は不正をする者のようになれ。私に立ち向かう者はよこしまな者のようになれ。

神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去るときは。

苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。(ヨブ記27:7-9)

そして、彼は言いました。「あなたたちは『悪人だけが呪われる』と言ったでしょう?それなら、あなたたちは冤罪の罪を犯したので、呪われることになりますよ。」

その後で、ヨブはその友達の「悪人の呪い」についての教えを繰り返し、「その言葉はあなたたち自身に当てはまるのですよ」と言いました。

そして、自分の弁解を続けました。

28章では知恵について語りました。つまり、人々は金や銀を鉱山から採取しますが、神様の御告げがない限り、誰も知恵という宝を見つけることはできません。また、神様が教えなければ、人々は知恵の価値を理解することができません。

しかし、ヨブはこう言いました。「神様は知恵を現してくださいました。」

それは、

主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。(ヨブ記28:28)

ヨブは文句を言っても、彼は本当の知恵とは何かを否定しませんでした。つまり、彼は主を恐れ続けたのです。

それでも、29章から31章にかけて、もう一度彼の苦しみについて文句を言い始めました。

29章では、彼は自分の以前の人生について語りました。かつて彼は尊敬され、正しい行いをしていました。

具体的には、貧しい人を助け、身寄りのない人や未亡人にあわれみを示し、さらに弱い人々を助けていたのです。そのため、神様がヨブを祝福するはずだと考えていました。

けれども、30章でヨブはこう文句を言いました。「神様はすべてを奪われた。今や皆が私をからかっている。それに、神様は私の祈りを全く聞いてくださらない。」

そして、30章から31章にかけて、ヨブはこう問いかけます。「私は貧しい者を助けたでしょう?苦しんでいる人のために悩んだでしょう?私は清い目を保ったでしょう?

もし私が姦淫を犯したり、貧しい人を助けなかったり、金銭を私の神としたり、偶像礼拝をしたり、敵の苦しみを見て喜んだり、私の罪を隠したりしたなら、どうぞ私を罰してください。

けれども、私はそのようなことを一切行っていません。

これが私の弁解です。それに署名しました。では、神様、もし私を責めたいのであれば、どうかお答えください。」

この箇所から何を学べるでしょうか。私は二つのことがあると思います。

一つ目は、ヨブの友達の「悪人だけが苦しむ」という考え方が間違っていたことです。

二つ目は、ヨブの「私が苦しみに値しないから、苦しむべきではない」という考え方も間違っていたことです。

私たちが住んでいる世界は壊れています。地震があり、台風があり、自然災害があります。また、この世界には病気や死があります。さらに、罪によって堕落した人々が多く存在し、その行動が私たちに影響を与えます。

そして、サタンもいます。また、サタンには多くの手下がいます。彼らは私たちを憎み、私たちを攻撃します。

これらすべてが私たちに影響を与えるため、神様は決して「あなたは苦しむことがない」とは約束していません。

むしろ、神様はその逆のことを約束されています。イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があるかもしれない」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があります」とはっきりと言われました。

たとえ、あなたがこの世で最も賢く、正しい人であっても、苦しみはやってきます。

イエス様はすべての人々よりも賢く、正しかったにもかかわらず、苦しみを受けられました。私たちはイエス様にまさる者でしょうか。

時々、クリスチャンたちは「私たちが苦しまないように、イエス様は私たちのために苦しまれた」と言います。

しかし、それは間違っています。イエス様は、私たちをあがなうために苦しまれました。また、いつか、すべてが新しくなるために苦しまれました。その日はまだ来ていませんが、必ず訪れます。

ですから、苦しむときは、その日を待ち望みましょう。

パウロはこう書いています

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18-25)

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