ヨブ記を解説する上で、さまざまな問題があります。その一つが、エリフの言葉をどのように理解すべきかということです。
ある学者たちは次のように考えています。「エリフはただの馬鹿なおしゃべりにすぎませんでした。そのため、誰も彼を重要視しませんでした。」
一方で、別の学者たちは次のように述べています。「エリフは正しかった。彼はヨブを神様の言葉を受け入れるための準備をしていたのです。」
私はエリフが正しかったと思います。なぜなら、32章2~3節で次のように書かれているからです。
エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。
彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。
エリフが怒っていた理由は二つありました。
一つ目は、ヨブが神様の正義を疑ったことです。
二つ目は、ヨブの友達がヨブの神様についての誤った考え方を正そうとしなかったことです。彼らはただ、「あなたは罪人です。神様はあなたを罰している」と言い続けました。
けれども、ヨブが具体的にどの罪を犯したのかについては、まったく説明できませんでした。
33章では、エリフがヨブの文句に答えます。その文句はこうでした。「私は何も悪いことをしていないのに、神様は私に敵対している。それに、神様は私の文句に対して沈黙している。」
エリフはこう答えました。「神様は必ず私たちに語りかけてくださいます。しかし、多くの場合、私たちはそれを聞いていないのです。」
さらに、エリフはこう言いました。「時には、神様は私たちの夢を通して語られます。」
おそらく、エリフはヨブの悪い夢について考えていたのでしょう。その夢の目的とは何だったのでしょうか。
人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。
神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。(ヨブ記33:17-18)
ある学者たちは、エリフが暗に「あなたは罪を犯したから、神様があなたを罰している」と言っていると考えています。
けれども、もしそうだったなら、神様がヨブの友達を批判したときに、なぜエリフも批判されなかったのでしょうか。おそらく、エリフは「ヨブが大きな罪を犯したから神様が彼を罰している」とは言わなかったからです。
むしろ、彼はこう言いました。「ヨブ、私たちは皆、罪を犯しますよね?あなたは大きな罪を犯していないかもしれませんが、時々罪を犯すことはあるでしょう?だから、神様は時折、私たちの罪とプライドを取り除くために、このような試練を許されるのです。
そして、神様が私たちの敵だから、私たちを苦しめるわけではありません。むしろ、神様は私たちを愛しておられ、私たちの救いのために常に働いておられるのです。」
そして、エリフはこう言いました。
見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、
人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。(33:29-30)
さらに、苦しみの中で、私たちは神様の恵みを見出すことができます。
23ー25節で、エリフは代言者について語ります。その代言者は、私たちに正しい道を教え、私たちのためにとりなしを行います。そして、その代言者はこう言います。
彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。(24)
そのとりなしによって、苦しんでいる人は祈ることができるようになり、神様の恵みを見出すことができるようになります。そして、その時、彼らは喜びの叫びを上げます。
私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。
神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。(27-28)
これは、新約聖書における救いの象徴ではないでしょうか。
ですから、この箇所から私が学んだのは、私たちの苦しみの背後には、神様の目的があるということです。私たちの試練を通して、私たちがへりくだるようになり、自分たちが罪人であり、神様の恵みが必要であることを思い出すのです。
もし、私たちがヨブのように神様の意図を疑うなら、一つのことを思い出しましょう。それは、神様が私たちを死と地獄から救うために、身代金を備えられたということです。その身代金は、神様の御子の命そのものでした。
ですから、私たちが苦しむとき、「神様が私たちを憎んでいるから、この試練を許された」と思わないでください。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、この試練を通して私たちを清め、救ってくださるのです。
ヨブが語ったように。
しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(ヨブ記23:10)
