カテゴリー
ヨシュア記

追い出せない罪

私たちは皆、罪と戦っています。私たちの人生から追い出すのが難しい罪もあります。特に男性にとっては情欲との戦いが困難なことが多いですが、女性がどのような罪と戦っているのか、私は確信を持って言うことができません。

しかし、その戦いが非常に困難だからといって、「もう仕方がない。その罪を征服できない。」と言って、ただ諦めてしまってはいけません。

残念ながら、カナンでイスラエル人はそのような態度を取りました。ヨシュアがマナセ族に自分たちの土地がどこであるかを教えたにもかかわらず、ヨシュア記17章12-13節には次のように書かれています。

しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。

イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。

イスラエル人はカナン人と契約を結び、カナン人をイスラエル人の支配下に置きました。けれども、神様の命令に従うことなく、カナン人を追い出さずに留めてしまいました。

私たちも時には頑固な罪に直面することがあります。その罪を追い出したいと思いながらも、その罪が私たちの中に居座り続けます。その結果、私たちはその罪とある種の「契約」を結ぶような状態になります。

「あなたが私を完全に支配することは許さないけれど、私の人生の中に留まることは認めます。」

しかし、そうしているうちに、時には私たちはその罪に負けてしまうことがあります。

ヨシュア記14-18節で、マナセ族とエフライム族は「私たちの土地は狭すぎる」と不平を言いました。ヨシュアが彼らに別の場所を提案した際、彼らは次のように答えました。

谷間に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(16)

私たちも罪と戦うときに、同じような言い訳をすることがあります。神様は私たちにこう言われます。「あなたはその罪を征服することができます。勝利することができますよ。」

けれども、私たちはこう答えることがあります。「無理です。その罪は強すぎます。」

それでは、ヨシュアは彼らに何と語ったのでしょうか。

あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。。。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。(17-18)

ヨシュアは非常に重要なことを伝えました。それは、彼らが一緒に戦えば、その敵を征服する力があるということです。

私たちも同じです。罪と戦うとき、周囲のクリスチャンに助けを求めることが有益です。たとえば、祈ってほしいと頼んだり、「私がその罪を犯していないか時々確認してください」とお願いすることが役立ちます。

そうすることで、私たちは共に強くなり、罪を追い出す力を持つことができるようになります。

あなたの場合はどうでしょうか。その頑固な罪と戦っていますか。それとも、言い訳をして、その罪が居座ることを許してしまっていますか。

カテゴリー
ヨシュア記

神様は忠実です。私たちは?

カレブの物語を読むと、私は本当に心を動かされます。彼が40歳のとき、神様が約束された地を偵察するために遣わされました。しかし、彼とヨシュアだけが、神様がその地をイスラエルの民に与えてくださると信じていました。

そのため、同世代のイスラエル人たちは皆死に絶えましたが、カレブとヨシュアは神様の恵みによって生き続けました。そして、彼らはなお健やかでした。

カレブは85歳になっていましたが、こう言いました。

今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア記14:10-11)

神様は、これまでずっとカレブに忠実でいてくださいました。そして、カレブもまた、神様に生涯忠実であり続けました。彼は健やかな体を保っており、信仰もいささかも衰えていませんでした。

だから、カレブはこう語ったのです。

どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。

あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。(ヨシュア記14:12)

カレブは、45年前にも神様を信じていました。そして、イスラエルの民がようやく約束の地に入ったその時も、やはり変わらず神様を信じていました。

アナク人を征服するのは不可能に思えたかもしれません。しかしカレブは、少しも疑いませんでした。なぜなら、神様がそう約束しておられたからです。カレブは、神様の約束を信じ続けたのです。

あなたはどうでしょうか。 神様が忠実なお方であることを信じていますか。 神様がその約束を必ず守ってくださると信じていますか。

そして、あなたは神様に忠実でしょうか。 神様があなたを助けてくださると信じて、今日も神様に従おうとしていますか。

カテゴリー
ヨシュア記

先を見て、走り続ける

多くの人々は、引退の日を心待ちにしています。長年働いた後、やっとリラックスでき、自分のやりたいことに時間を使えるからです。

しかし、神の国においては「引退」は存在しません。

クリスチャンとして、私たちは前を見つめて走り続けるように召されています。絶えず成長し続けるように召されています。そして、神様のためにこの世に影響を与えるように召されています。

ある一節の中で、神様はヨシュアにまさにそのことを語られました。

あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(ヨシュア記13:1)

神様は、こう言われたのではありません。 「さあ、ヨシュア。もう年を取ったね。では、リラックスする権利を得たから、どうぞ、ゆっくり休みなさい。」

むしろ、神様はこう言われました。 「あなたは多くのことを成し遂げてきた。よくやった。けれど、あなたの使命はまだ終わっていない。しなければならないことが、まだたくさん残っている。」

神様は、私たちにもそのように語っておられます。

私はもう30年以上クリスチャンとして歩んでいますが、まだ完全な者にはなっていません。今でも、罪との戦いの中にあります。成長が必要なところが、まだまだ残っています。だから、クリスチャンとして寛いでいる場合ではないのです。

それに、私はこれまでずっと神様に仕えてきましたが、まだまだしなければならないことが数多く残っています。

たとえ引退しても、おそらく何らかの形で神様に仕えることになると思います。神のことばを語る機会があるかもしれません。スモールグループを導くことがあるかもしれません。あるいは、人々を祝福するために訪ねていくこともあるかもしれません。

日本では、今もなお大多数の人々がイエス様を知りません。だからこそ、まだやるべきことがたくさんあります。私たちは、40年後にこの国に大きなインパクトを与えることを願っています。

けれども、イエス様が私を天に呼ばれるその日まで、私は安らいでいる場合ではありません。あなたもそうです。

だから、私たちは前を見つめて走り続けましょう。さらにイエス様に似た者へと成長していきましょう。この世で、イエス様の手となり、足となり、口となりましょう。

カテゴリー
ヨシュア記

ひと言も取り除かなかった

私は、ヨシュア記11章15節が大好きです

がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。

いつか私が天に召されたとき、もし墓石が与えられるなら、そこにこう記してほしいと願っています。

「ブルースは、主が命じられたすべてのことばを、一言も取り除くことがなかった。」

時間を無駄にするのは、本当に簡単なことです。また、目の前の緊急なことに気を取られて、本当に大切なことを忘れてしまうのも、あまりにも簡単です。私は、その両方をよくしてしまいます。

さらに、言い訳をつくるのも簡単です。

「自分の自由な時間が必要なんです。」

あるいは、

「生活のためには、お金が必要でしょう?」

でも、神様に従うなら、神様は必要なものを与えてくださらないでしょうか。

神様は、お金をも、自由な時間をも与えることのできる方ではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちが燃え尽きてしまうことを望んでおられません。むしろ、私たちがその愛と恵みに照らされて、輝く者となることを望んでおられます。

イエス様は、私たちにこう言われました

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

だからこそ、私は自分に、次の二つの問いを投げかけなければなりません。

1.神様を信じているだろうか。

2.神様に従っているだろうか。

カテゴリー
ヨシュア記

私たちを聞いてくださる神、私たちのために戦ってくださる神

この箇所では、本当に驚くべき、信じがたい奇跡について記されています。ヨシュア10:13によれば、太陽はとどまり、月も静止したとあります。その結果、イスラエルの民は十分な光を得て、敵を討ち破ることができました。

では、「日が動かなかった」とは、どういう意味なのでしょうか。もちろん、これは文字どおりには解釈できません。なぜなら、実際に太陽は動かないからです。

では、神様が地球とその他の惑星の動きを止められたのでしょうか。それとも、地球の自転を一時的に遅くされたのでしょうか。そうだとすれば、神様は自然法則そのものを変えられたことになります。

正直に言えば、私にはそれがどう行われたのか分かりません。

一部の学者たちは、神様が何らかの方法で光を屈折させ、地球が動いていたとしても、イスラエルが戦うのに十分な光を与えられたのではないかと考えています。

何が実際に起こったのかは分かりません。しかし、一番大切なポイントは、14節に記されているのです。

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(ヨシュア記10:14)

私たちは皆、人生において困難な時を経験します。厳しい上司、苦しい結婚生活、その他のつらい人間関係の中にあるかもしれません。

あるいは、自分自身の罪と格闘しているかもしれません。

落胆や、うつのような状態と戦っている人もいるでしょう。

そんなとき、私たちはこう問いかけたくなります。

「神様は、本当に私を愛しておられるのだろうか。神様は、本当に私の人生の中で働いておられるのだろうか。」

けれども、神様はヨシュアの祈りを聞いてイスラエルのために戦ってくださったように、私たちの祈りも聞いてくださり、私たちのためにも戦ってくださいます。

ですから、たとえどんなに苦しい状況にあっても、落胆しないでください。神様は、あなたの祈りを確かに聞いておられ、あなたのために戦ってくださるのです。

カテゴリー
ヨシュア記

でも、その時は正しいと思ったのに

ヨシュアは、基本的には優れたリーダーでした。

とはいえ、彼はふたつの重大な判断ミスをしました。なぜ、彼は失敗してしまったのでしょうか。その両方に共通していたのは、自分の知恵に頼ってしまったということです。

ひとつ目は、アイの件です。イスラエルがエリコに対して大勝利を収めた直後、ヨシュアと民たちは大きな自信を持っていました。そして、アイとの戦いの作戦について、まったく神様に相談しなかったのです。

むしろ彼らはこう言いました。「エリコを簡単に征服したのだから、アイは小さな町だし、軍全体を送る必要はない。」

こうして神様に尋ねることなく出陣し、敗北を喫しました。もし最初から神様に相談していたなら、アカンの罪について知らされていたことでしょう。

ふたつ目は、この箇所に記されている出来事です。

神様はイスラエルに、カナンの民をすべて滅ぼすよう命じておられました。なぜなら、その民は徹底的に悪に染まっていたからです。けれども、その中にいたギブオン人は、欺いて言いました。「私たちは、遠い国から来た旅人です。」

この偽りによって、イスラエルは彼らと盟約を結んでしまいました。

なぜ、そのような盟約を結んでしまったのでしょうか。ヨシュア記9:14節には、こう書かれています。

主の指示をあおがなかった。

神様に相談していれば、彼らは騙されることはなかったでしょう。

いずれの決断も、表面的には正しく思えたかもしれません。しかし、ふたつとも誤った選択でした。

私たちも、どれほど同じような過ちを繰り返しているでしょうか。自分の知恵に頼り、「これが最善だ」と思って決断しても、神様に相談しないことがあります。また、神様の御言葉を知っていても、それを意図的に無視してしまうことさえあるのです。

聖書には、こう記されています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

私たちは、ヨシュアの失敗から学びましょう。決断のときには、神様に祈り、その導きを求めましょう。

カテゴリー
ヨシュア記

戦いに走りましょう

「神様は、まだ私を用いてくださるだろうか。それとも、私はもうだめなのだろうか。」

クリスチャンは失敗したとき、特に罪を犯してしまったときに、よくそう考えてしまいます。イスラエルの民も、きっと同じように思ったかもしれません。

アカンの罪のゆえに、彼らはアイの町で敗北しました。罪は正しく処理されましたが、それでも心に不安が残っていたことでしょう。

「神様は、まだ私たちと共におられるのだろうか。あるいは、神の約束はもう無効になってしまったのだろうか。」

だから、神様はヨシュアにこう語られました。

恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。(ヨシュア記8:1)

つまり、神様はこう言われたのです。

「ヨシュア、あなたたちは確かに失敗した。そして、その罪のゆえに苦しんだ。だが、すでにその罪は処理された。

だから、今こそ立ち上がりなさい。恐れることはない。私があなたたちに敵対することを恐れなくてよい。私はあなたたちを捨ててはいない。

だから、落胆してはならない。むしろ、私の命令に従って、アイの町との戦いへと向かいなさい。私は必ず、あなたたちに勝利を与える。」

私たちが失敗する時、特に罪を犯してしまったとき、神様は同じように語られます。私たちが悔い改めたあとでも、「本当に赦されたのだろうか」「神様は今も私と共におられるだろうか」と、不安になることがあります。

けれども神様は、私たちにこう言われます。

「あなたは失敗した。だが、その罪を告白したのだから、立ち上がりなさい。私は今もあなたと共にいる。がっかりしてはならない。さあ、私のことばに従い、戦いの現場に戻りなさい。」

私たちはいま、どのような戦いの中にいるのでしょうか。

聖書は、私たちが霊的な戦いの只中にあることをはっきりと示しています。私たちは、サタンとその悪しき力に立ち向かっています。

そして同時に、私たちは人々の魂のために戦っています。つまり、イエス・キリストをまだ知らない人々が、神と個人的な関係をもつことができるように――そのために私たちは働いているのです。

サタンもこのことを知っています。彼があなたの救いを奪うことができないなら、今度はあなたを非効果的な戦士にしようと働きかけてきます。

だからこそ、私たちが罪を犯したとき、サタンは私たちを落胆させようとします。彼はこうささやくのです。

「あなたはもうだめだ。あなたの罪が見えるだろう?神様がそんなあなたをどうやって用いることができるというのか。もう黙っていたほうがいい。誰も、あなたのことばなんて信じないのだから。」

けれども、神様はそのようなことは決して言われません。神様は、私たちが自己憐憫に陥ることを望んでおられません。むしろ、神様が私たちに伝えようとしておられるのは、こういうことです。

「私は今もあなたを愛している。私は今もあなたを用いることができる。」

だから、落胆しないでください。

あきらめないでください。

立ち上がりましょう。

そして、再び戦いに向かいましょう。

カテゴリー
ヨシュア記

隠すことができない

私は関西にずっと住んでいて、関西弁を少し話します。関西では多くの人が「あかん」という言葉をよく使います。

少し可笑しいですが、今日の箇所には「アカン」という名前の人が出てきます。そして、アカンは本当にあかんかったのです。

(ごめんなさい。私の前の牧師がその駄洒落を使っていて、私は忘れられません。)

とにかく、アカンはイスラエルの人々に大きな問題をもたらしました。

イスラエルがエリコを征服した後、神様は「すべてを破壊しなさい」と命じられました。

けれども、アカンは自分のために衣服や金、銀を取ってしまいました。その後、イスラエルが「アイ」という町と戦った時、神様が共におられなかったため、彼らは恐れて逃げ出しました。

ヨシュアと民は失望し、「どうしてこんなことが起こったのか」と問いかけました。

すると神様はこう答えられました。「立ちなさい。イスラエルは罪を犯した。それを取り除かない限り、何をしてもうまくいかない。」

そこで、イスラエル人は神様の前に立ち、 神様がアカンの罪を明らかにされました。

その罪を処理して初めて、イスラエル人は神様の計画を再び成し遂げることができたのです。

私たちも同じです。 時々、私たちは心の中に罪を隠し、 「誰にも知られていないから大丈夫だ」と思ってしまうことがあります。 しかし、どれほど巧みに隠しても、神様から隠すことはできません。

実は、この事件の前に、神様はこう言われていました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

つまり、どれほど巧みに罪を隠しても、 必ず罰を受けることになります。

アカンがまさにその例です。

では、なぜ罪はそれほどまでに悪いのでしょうか。 二つの理由があります。

一つ目は、罪が他の人に影響を与えるということです。 自覚がなくても、必ず誰かに影響します。

おそらくアカンは、「自分の行動は悪いかもしれないが、他の人に迷惑はかけないだろう」と思ったのかもしれません。 けれども、実際にはその罪によって、イスラエルはアイの戦いで敗走しました。

二つ目は、罪が神様の計画の実現を妨げるということです。

私たちが罪を犯しても、神様は私たちを見捨てることはありません。 神様はそのように約束しておられます。 とはいえ、神様は罪を抱えたままの私たちを祝福することはされません。

ですから、神様の祝福を受けたいと願うなら、罪を隠すのではなく、 正直に向き合い、処理しなければならないのです。

しかし、ここに良い知らせがあります。 神様はいつでも、喜んで私たちを赦してくださいます。 第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

だから、決して罪を隠してはいけません。 むしろ、神様の御前に進み出て、告白しましょう。 そうすれば、神様は私たちを赦してくださり、 祝福もしてくださいます。