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ヨシュア記

隠すことができない

ヨシュア記7章

私は関西にずっと住んでいて、関西弁を少し話します。関西では多くの人が「あかん」という言葉をよく使います。

少し可笑しいですが、今日の箇所には「アカン」という名前の人が出てきます。そして、アカンは本当にあかんかったのです。

(ごめんなさい。私の前の牧師がその駄洒落を使っていて、私は忘れられません。)

とにかく、アカンはイスラエルの人々に大きな問題をもたらしました。

イスラエルがエリコを征服した後、神様は「すべてを破壊しなさい」と命じられました。

けれども、アカンは自分のために衣服や金、銀を取ってしまいました。その後、イスラエルが「アイ」という町と戦った時、神様が共におられなかったため、彼らは恐れて逃げ出しました。

ヨシュアと民は失望し、「どうしてこんなことが起こったのか」と問いかけました。

すると神様はこう答えられました。「立ちなさい。イスラエルは罪を犯した。それを取り除かない限り、何をしてもうまくいかない。」

そこで、イスラエル人は神様の前に立ち、 神様がアカンの罪を明らかにされました。

その罪を処理して初めて、イスラエル人は神様の計画を再び成し遂げることができたのです。

私たちも同じです。 時々、私たちは心の中に罪を隠し、 「誰にも知られていないから大丈夫だ」と思ってしまうことがあります。 しかし、どれほど巧みに隠しても、神様から隠すことはできません。

実は、この事件の前に、神様はこう言われていました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

つまり、どれほど巧みに罪を隠しても、 必ず罰を受けることになります。

アカンがまさにその例です。

では、なぜ罪はそれほどまでに悪いのでしょうか。 二つの理由があります。

一つ目は、罪が他の人に影響を与えるということです。 自覚がなくても、必ず誰かに影響します。

おそらくアカンは、「自分の行動は悪いかもしれないが、他の人に迷惑はかけないだろう」と思ったのかもしれません。 けれども、実際にはその罪によって、イスラエルはアイの戦いで敗走しました。

二つ目は、罪が神様の計画の実現を妨げるということです。

私たちが罪を犯しても、神様は私たちを見捨てることはありません。 神様はそのように約束しておられます。 とはいえ、神様は罪を抱えたままの私たちを祝福することはされません。

ですから、神様の祝福を受けたいと願うなら、罪を隠すのではなく、 正直に向き合い、処理しなければならないのです。

しかし、ここに良い知らせがあります。 神様はいつでも、喜んで私たちを赦してくださいます。 第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

だから、決して罪を隠してはいけません。 むしろ、神様の御前に進み出て、告白しましょう。 そうすれば、神様は私たちを赦してくださり、 祝福もしてくださいます。

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