私は関西にずっと住んでいて、関西弁を少し話します。関西では多くの人が「あかん」という言葉をよく使います。
少し可笑しいですが、今日の箇所には「アカン」という名前の人が出てきます。そして、アカンは本当にあかんかったのです。
(ごめんなさい。私の前の牧師がその駄洒落を使っていて、私は忘れられません。)
とにかく、アカンはイスラエルの人々に大きな問題をもたらしました。
イスラエルがエリコを征服した後、神様は「すべてを破壊しなさい」と命じられました。
けれども、アカンは自分のために衣服や金、銀を取ってしまいました。その後、イスラエルが「アイ」という町と戦った時、神様が共におられなかったため、彼らは恐れて逃げ出しました。
ヨシュアと民は失望し、「どうしてこんなことが起こったのか」と問いかけました。
すると神様はこう答えられました。「立ちなさい。イスラエルは罪を犯した。それを取り除かない限り、何をしてもうまくいかない。」
そこで、イスラエル人は神様の前に立ち、 神様がアカンの罪を明らかにされました。
その罪を処理して初めて、イスラエル人は神様の計画を再び成し遂げることができたのです。
私たちも同じです。 時々、私たちは心の中に罪を隠し、 「誰にも知られていないから大丈夫だ」と思ってしまうことがあります。 しかし、どれほど巧みに隠しても、神様から隠すことはできません。
実は、この事件の前に、神様はこう言われていました。
あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)
つまり、どれほど巧みに罪を隠しても、 必ず罰を受けることになります。
アカンがまさにその例です。
では、なぜ罪はそれほどまでに悪いのでしょうか。 二つの理由があります。
一つ目は、罪が他の人に影響を与えるということです。 自覚がなくても、必ず誰かに影響します。
おそらくアカンは、「自分の行動は悪いかもしれないが、他の人に迷惑はかけないだろう」と思ったのかもしれません。 けれども、実際にはその罪によって、イスラエルはアイの戦いで敗走しました。
二つ目は、罪が神様の計画の実現を妨げるということです。
私たちが罪を犯しても、神様は私たちを見捨てることはありません。 神様はそのように約束しておられます。 とはいえ、神様は罪を抱えたままの私たちを祝福することはされません。
ですから、神様の祝福を受けたいと願うなら、罪を隠すのではなく、 正直に向き合い、処理しなければならないのです。
しかし、ここに良い知らせがあります。 神様はいつでも、喜んで私たちを赦してくださいます。 第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
だから、決して罪を隠してはいけません。 むしろ、神様の御前に進み出て、告白しましょう。 そうすれば、神様は私たちを赦してくださり、 祝福もしてくださいます。
