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ヨシュア記

戦いに走りましょう

ヨシュア記8章

「神様は、まだ私を用いてくださるだろうか。それとも、私はもうだめなのだろうか。」

クリスチャンは失敗したとき、特に罪を犯してしまったときに、よくそう考えてしまいます。イスラエルの民も、きっと同じように思ったかもしれません。

アカンの罪のゆえに、彼らはアイの町で敗北しました。罪は正しく処理されましたが、それでも心に不安が残っていたことでしょう。

「神様は、まだ私たちと共におられるのだろうか。あるいは、神の約束はもう無効になってしまったのだろうか。」

だから、神様はヨシュアにこう語られました。

恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。(ヨシュア記8:1)

つまり、神様はこう言われたのです。

「ヨシュア、あなたたちは確かに失敗した。そして、その罪のゆえに苦しんだ。だが、すでにその罪は処理された。

だから、今こそ立ち上がりなさい。恐れることはない。私があなたたちに敵対することを恐れなくてよい。私はあなたたちを捨ててはいない。

だから、落胆してはならない。むしろ、私の命令に従って、アイの町との戦いへと向かいなさい。私は必ず、あなたたちに勝利を与える。」

私たちが失敗する時、特に罪を犯してしまったとき、神様は同じように語られます。私たちが悔い改めたあとでも、「本当に赦されたのだろうか」「神様は今も私と共におられるだろうか」と、不安になることがあります。

けれども神様は、私たちにこう言われます。

「あなたは失敗した。だが、その罪を告白したのだから、立ち上がりなさい。私は今もあなたと共にいる。がっかりしてはならない。さあ、私のことばに従い、戦いの現場に戻りなさい。」

私たちはいま、どのような戦いの中にいるのでしょうか。

聖書は、私たちが霊的な戦いの只中にあることをはっきりと示しています。私たちは、サタンとその悪しき力に立ち向かっています。

そして同時に、私たちは人々の魂のために戦っています。つまり、イエス・キリストをまだ知らない人々が、神と個人的な関係をもつことができるように――そのために私たちは働いているのです。

サタンもこのことを知っています。彼があなたの救いを奪うことができないなら、今度はあなたを非効果的な戦士にしようと働きかけてきます。

だからこそ、私たちが罪を犯したとき、サタンは私たちを落胆させようとします。彼はこうささやくのです。

「あなたはもうだめだ。あなたの罪が見えるだろう?神様がそんなあなたをどうやって用いることができるというのか。もう黙っていたほうがいい。誰も、あなたのことばなんて信じないのだから。」

けれども、神様はそのようなことは決して言われません。神様は、私たちが自己憐憫に陥ることを望んでおられません。むしろ、神様が私たちに伝えようとしておられるのは、こういうことです。

「私は今もあなたを愛している。私は今もあなたを用いることができる。」

だから、落胆しないでください。

あきらめないでください。

立ち上がりましょう。

そして、再び戦いに向かいましょう。

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