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サムエル記第一

外見は敬虔であっても

サムエル記第一4章

イスラエル人を見ると、彼らの一番の問題は、外見は敬虔な人のようであったけれど、彼らの心は神様のものでなかったことです。

この箇所では、イスラエル人がペリシテ人と戦いましたが、敗北しました。落胆した彼らは、こう問いかけました。

なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。(サムエル記第一4:3)

本当の問題は、彼らが心から神様に従わなかったことです。ただ、自分の目に正しいと思うことを行っていました。士師記でこのように書かれています。

自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)

だから、彼らは次の戦いに、主の契約の箱を持って来ました。彼らは多分こう考えたのでしょう。

「ほら、神様。私たちはあなたを連れて行きます。だから、勝利を与えてくださるでしょう?」

けれども、神様を「連れて来てあげても」、彼らは心から神様に従っていませんでした。彼らは敬虔な人のように見えましたが、実際はそうではありませんでした。

彼らは主の契約の箱をただのお守りのように扱い、神様の戒めも守りませんでした。

つまり、一年に一度だけ、大祭司が至聖所(主の契約の箱がある場所)に入ることを許されていました。その時、大祭司はイスラエル人の罪の贖いのために犠牲となった動物の血を神様に捧げました。

しかし、神様がイスラエル人に勝利を与えるために、その大祭司の息子たちは至聖所に入って主の契約の箱を取り、それを戦いに持って行きました。

結果はどうだったでしょうか?再びペリシテ人に打ち負かされ、その契約の箱も奪われてしまいました。

エリはその知らせを聞いたとき、自分の席から落ちて死にました。

エリの息子ピネハスの妊娠していた妻は、夫と義父が死に、さらに神の箱が奪われたことを聞いて陣痛が始まりました。

彼女は子どもを産んだ後、すぐに亡くなりました。けれども、その前に彼女は息子を「イ・カボデ」と名づけました。その名前の意味は「栄光がない」、または、「栄光はどこか」ということです。

彼女は言いました。

栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。(サムエル記第一4:22)

しかし、神様はイスラエルを決してお捨てになりませんでした。それに対して、イスラエルは神様を捨てていました。

外見は敬虔に見えたとしても、彼らの心は神様のものでありませんでした。

パウロはそのような人々についてテモテに書いています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。

こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3:1ー5)

イスラエル人は、そのような人々でした。それは士師記においてよく描かれています。

残念なことですが、今日でも多くのクリスチャンが、そのような人々と同じです。日曜日には本当に敬虔な人に見えるかもしれませんが、他の日には全く敬虔な人生を歩んでいないのです。

その結果、彼らはいつも打ち負かされたような人生を送りながらも、その理由を理解していません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は本当に神様のものでしょうか。それとも、自分の目に正しいと思うことをして、自分自身のために生きているのでしょうか。

あなたは他の人々を騙すことはできるかもしれませんし、自分自身を騙すこともできるかもしれません。けれども、神様を騙すことは決してできません。そして、神様を操ることもできません。

イスラエル人は神の箱を持ち出してそれを試みましたが、失敗しました。同様に、あなたも自分の敬虔な行動をもって神様を操ることはできません。

あなたはただ敬虔なふりをしているのでしょうか。それとも、あなたの心は本当に神様のものでしょうか。

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