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サムエル記第一

神様の前に誰が立つことができるでしょうか

サムエル記第一6ー7章

主の箱がイスラエルに戻されたとき、彼らは喜びに溢れ、主にいけにえを捧げました。

ところが、その喜びの中には悲しみもありました。なぜなら、70人の人々が主の箱の中を覗き見たことで、神様が彼らを打たれたからです。

なぜ神様はそのようにされたのでしょうか。それは、彼らが聖なるものを普通の物のように扱ったからです。

実際、この行動は彼らの態度を映し出していました。イスラエル人は長い間、聖なる神様を普通の存在のように扱ってきたのです。

その日、イスラエル人は叫びました。

だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。(サムエル記第一6:20)

実際のところ、彼らの中には神様の前に立つことができる者は一人もいませんでした。

なぜでしょうか。それは彼らが自分の目に正しいと思うことだけを行っていたからです。そのため、サムエルは彼らに語りました。

もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。(7:3)

つまり、「あなたはやっと真剣に神様に従うでしょうか。では、自分の道を歩むのをもうやめなさい。偽りの神々に従うことをやめ、神様に心から従いなさい。」

その日、彼らがついに悔い改めたので、神様は彼らをペリシテ人の手から救い出し始めました。

ダビデは次のように書きました。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(詩篇24:3-6)

その日、イスラエル人は重要な教訓を学びました。

口先だけで神様に仕えることでは不十分です。いけにえを捧げることも完全ではありません。宗教的な行動もまた不十分です。

もし神様の前に立ちたいのであれば、全く新しい心が必要です。清い心が必要です。そして、神様だけに自分自身を捧げる心が必要なのです。

さらに、正しいことを行うための清い手が必要です。私たちの物理的な人生と霊的な人生を切り離すことはできません。それらは互いに影響を与え合うからです。

しかし、清い手と清い心があるならば、私たちは神様からの祝福を受けることができます。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は清いでしょうか。心のすべてを神様に捧げていますか。あなたの罪は清められているでしょうか。

実際、私たちは皆、罪と戦っています。誰も完全に清いわけではありません。ローマ3:10に、こう書かれています。

義人はいない。ひとりもいない。

この理由により、イエス様はこの世に来られました。そして、十字架で死ぬことによって、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

ただイエス様の流された血によって、私たちは神様の前に清められることができました。また、イエス様の血によって、私たちは大胆に神様の前に立つことができるのです。

けれども、私たちは真剣に神様との関係を考えなければなりません。悔い改めるべきです。そして、イエス様を私たちの主とする必要があります。

そうするなら、私たちは神様の前に立つことができます。しかし、もしそうしなければ、私たちは決して神様の前に立つことはできないのです。

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