サウルの信仰は弱かったですが、その息子ヨナタンの信仰は非常に強かったです。ペリシテ人との戦いの際、ヨナタンはその信仰を行動で示しました。
サウルには何も伝えずに、ヨナタンはペリシテ人の前線の陣地へと向かいました。おそらく出発した時点では、ペリシテ人と戦う計画はなかったでしょう。けれども、到着すると戦う決意を固めたのです。
普通であれば、それは非常に無謀な考えに思えるかもしれませんが、ヨナタンの考え方には納得できるところがあります。
彼はこう言いました。
大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。(サムエル記第一14:6)
ヨナタンに対する忠誠心なのか、自分自身の信仰なのか、またはその両方の組み合わせなのかは分かりませんが、その武器持ちの若者はこう答えました。
何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。(7節)
けれども、行く前に計画を立てました。主が彼らと共におられるならば、勝利を収めることができると信じていました。そのため、神様が彼らを助けてくださるかどうか確認したかったのです。
そこで、ヨナタンはこう言いました。
もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。
もし彼らが、『おれたちのところに上って来い』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らをわれわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」(9-10節)
ペリシテ人たちは彼らを見つけた時、こう言いました。
おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。(12)
だから、信仰をたっぷりと持って、ヨナタンとその武器持ちの若者は崖を上り、素晴らしい勝利を収めました。
この話から、二つのことを学ぶことができると思います。
一つ目は、勝利が不可能に思える状況でも、信仰によって立つならば、神様はあなたを通して素晴らしいことを成し遂げてくださるということです。
二つ目は、もしあなたが他の人々と一緒に信仰を持って立つならば、さらに大きな素晴らしいことを成し遂げることができるということです。
クリスチャンが一人で立つことは、神様の理想ではありません。神様は私たちが共に立つことを望んでおられます。
ある人はこう思うかもしれません。「私には教会は必要ない。私は一人で十分です。」
確かに、それは一理あるかもしれません。しかし、一人で働くことでは、他の人々と共に働くほど、神様の国のために多くのことを成し遂げることはできません。
だからこそ、問いかけるべき疑問は「私は一人で十分でしょうか」ではなく、「他の人々と共に信仰によって立つことで、神様の国のためにどれほどのことを成し遂げることができるのだろうか」ということです。
どうか決して忘れないでください。
信仰によって立つと、神様はあなたを通して素晴らしいことを成し遂げてくださいます。そして、他の人々と共に信仰によって立つならば、さらに大きな素晴らしいことを成し遂げることができるのです。
