サウルが神様に背を向けた後、神様もサウルに背を向けられました。14節には、神様がサウルをおびえさせるために災いの霊を送られたことが書かれています。
これは少し理解しにくい箇所です。どうして良い神様がそのようなことをされるのでしょうか。
けれども、私たちが理解しなくてはならないことがあります。それは、神様の望みが、私たち皆にご自身を求めてほしいということです。
しかし、私たちがあまりにも頑固であるとき、神様は私たちの注意を引くために、ご自身の手を私たちの人生から離され、サタンが私たちを攻撃することを許されることがあります。
第一コリント5章には、そのようなことが書かれています。パウロは悔い改めたくないクリスチャンについて、次のように言いました。
このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)
その希望は、その人が惨めになり、主をもう一度求めて、罪から救われることです。そのコリント人の人は、そうしたようです。(第二コリント2:5-10)。
けれども、サウルの場合、彼は全く悔い改めませんでした。むしろ、彼は一時的な解決を求めました。そして、サウルの家来が彼に勧めました。
わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。
わざわいをもたらす、神の霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。(サムエル記第一16:16)
だから、ダビデはサウルを慰めるために、立琴を弾き始めました。サウルがダビデを気に入ったので、ダビデはサウルの道具持ちになりました。
そして、災いの霊が来てサウルを苦しめたときに、ダビデが来て立琴を弾いてあげました。そうすると、サウルは再び元気になりました。
しかし、その平安はすぐになくなりました。なぜでしょうか。それは、サウルが問題の根本を全く扱わなかったからです。つまり、彼は神様に従わない心を持っていたのです。
現在でも、多くの人々が神様に背を向けるので、神様はトラブルを送られます。そして、その希望は、彼らがもう一度神様を求めることにあります。けれども、彼らはそうせず、一時的な解決を求めます。
ある人にとっては音楽です。ある人にとっては麻薬やアルコールです。ある人にとっては教会に行くことです。彼らは教会に行き、愛情深い人々から励まされます。そして、音楽とメッセージによって励まされるのです。
しかし、教会を楽しんでも、彼らは問題の根本を扱いません。つまり、月曜日から土曜日まで、彼らは神様に従わないのです。だから、すぐにまた惨めになってしまいます。
あなたはどうでしょうか。あなたの罪によってトラブルが来るとき、どのように反応しますか。
神様に向かうでしょうか。それとも、一時的な解決を求めるでしょうか。
その一時的な解決を求めることはしないでください。むしろ、本当の平和と満足を与えてくださる神様に向かいましょう。
ダビデはこう書きました。
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32:1-5)
