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サムエル記第一 歴代誌第一

人々の良い点を思い出すのを選ぶ

サムエル記第一31章;歴代誌第一10章

今日は第一サムエル記のブログを締めくくります。その前に、少しブログに関するお知らせがあります。

このブログでは、基本的に年代順に聖書の出来事をお話ししたいと考えています。そのため、最近は時折、第一サムエル記について書きながら、詩篇についても取り上げてきました。

これからは、時々特定の箇所をまとめて扱う予定です。例えば、第一サムエル記31章と歴代誌第一10章は同じ出来事について書かれているため、今日はその二つの箇所を一緒にまとめます。

さて、今日はサウルの話が終わります。それは、本当に悲惨な話です。戦争の中で、もうすぐ殺されると悟ったサウルは、自ら命を絶ちました。

ペリシテ人はサウルの首を切り、その頭をある宮にさらし、別の宮には彼の武具をさらしました。また、彼の遺体をペリシテ人の一つの都市の城壁にさらし、さらにはサウルの息子たちの遺体もその城壁にさらしました。

どうして、このようなことが起こったのでしょうか。歴代誌の著者はその答えを示しています。

このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、

主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。(歴代誌第一10:13-14)

確かにサウルは悪い王でした。とはいえ、ある人々は、サウルの良い点を忘れずに覚えていました。それは、ヤベシュ・ギルアデの人々です。

何年か前、サウルはサムエルにイスラエルの王として油を注がれたものの、それでもなお自分の農場で働き続けていました。

けれども、ヤベシュ・ギルアデが攻撃されたと聞くや否や、サウルはイスラエル人を集め、その人々を助けに向かったのです。

そのため、ヤベシュ・ギルアデの人々は、その出来事を決して忘れることはありませんでした。そして、彼らがサウルとその息子たちの遺体について聞いた時、彼らは勇気を持ってその遺体を引き取り、葬りました。

ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルが悪い王であったことを知っていたはずです。サウルは正当な理由がないにもかかわらず、ダビデを殺したいと思い、ダビデを追いかける間、時折イスラエルを適切に守ることを怠りました。

また、ノブの祭司たちがダビデを助けたため、サウルは彼らを殺害しました。ヤベシュ・ギルアデの人々は、それらすべての出来事を知っていたに違いありません。

それでも、彼らはサウルの悪い行いを思い出すことを選ばず、むしろサウルの良い行いを思い出すことを選びました。その結果、彼らは生命を危険にさらし、サウルとその息子たちの遺体を取り戻して葬ったのです。

その話を読むと、私はこう考えます。

「私は周囲の人々についてどのように考えるだろうか。彼らの悪い点ばかりに心を留め続けるだろうか。それとも、彼らの良い点を忘れずに心に留め続けるだろうか。」

普通は良い点について考え続けますが、時々悪い点についても考えてしまうことがあります。それは、まだ私の心の中に苦々しい根が残っているからです。そのため、今でも私の彼らに対する態度に影響を与えています。

おそらく、ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルに対して全く苦々しい思いを抱いていなかったのでしょう。彼らはサウルの悪い行いについては耳にしていたはずですが、サウルが彼らに害を及ぼすことはありませんでした。

しかし、ある人々は私を傷つけました。私はある程度まで彼らを許しましたが、それでも心の中には苦々しい根が残っており、彼らのことを考えると、悪いことを思い出してしまいます。

とはいえ、よく考えてみると、彼らにも良い点がありました。時には、彼らは他の人々や私自身を助けてくれたこともありました。

そのため、この箇所を読むと、私はこう思います。「このようなことを思い出さなくてはならない。悪いことではなく、良いことについて考えるべきだ。」

それでもなお、時にはそれが難しいと感じます。

良いことを思い出すことは、悪いことをすべて忘れるという意味ではありません。また、それが彼らに再び私を傷つけることを許すということでもありません。

ダビデはその良い例です。サウルが亡くなった時、ダビデは泣きました。そして、サウルを讃える歌も書きました。

しかし、サウルが生きている間、ダビデはサウルから逃げ続けました。なぜなら、サウルは危険な人だったからです。

ダビデは、サウルの良い点に目を向け続けることを選びました。そして、サウルの罪を赦すことを決断されました。けれども、それと同時に、ご自身を守ることも忘れませんでした。私たちも、このようなバランスを持つ必要があります。

あなたを傷つける人がいるでしょうか。それはお父さんでしょうか。それともお母さんでしょうか。同僚でしょうか。それとも教会の人々でしょうか。

彼らについて、あなたはどのように考えられるでしょうか。悪いことにばかり焦点を当てるでしょうか。それとも、彼らの良い点に目を向けるでしょうか。

神様は、私たちをどのようにご覧になるでしょうか。私たちの悪い点に目を向けることもできますが、そうはされません。

イエス様が私たちの罪のために命を捨て、その血が私たちの罪を覆ってくださるからです。その結果、神様は私たちの良い点を思い起こしてくださいます。

私たちを傷つけた人々について考える時、そのようなあわれみを示しましょう。

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