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サムエル記第二 歴代誌第一

勝利を得るため

この箇所を見ると、ダビデの勝利によって、初めてカナンに入ったイスラエル人が「勝利できない」と言ったのは、ただの言い訳であったことが分かります。

士師記には繰り返しこのような話が登場します。つまり、イスラエル人の敵が鉄の馬車などを持っていたため、イスラエル人はカナン人を追い払うことができなかったというものです。

けれども、ダビデの敵はさらに優れた武器を持っていたにもかかわらず、ダビデは勝利を収めました。なぜでしょうか。それはダビデが神様に信頼したからです。一方、その時代のイスラエル人はそうしませんでした。

神様は私たちに勝利を与えたいと望んでおられます。それにもかかわらず、私たちはしばしば自分自身を説得して「勝利できない」と思い込んでしまいます。

例えば、良い仕事を探す時、良い妻や夫を見つけようとする時、また罪と戦う時に、よくこう思うのです。「私は勝てない。」

「この仕事には絶対に就けないから、面接に挑戦するのはやめておこう。」

「その人とデートをしても、どうせ最後には捨てられるだろう。」

「この罪と何度も戦ってきたけれど、いつも負けている。もう戦い続ける意味があるのだろうか。」

しかし、私たちが自分自身に問いかけるべき質問があります。

「神様は本当に私と共にいてくださるでしょうか。神様は本当に私の味方でいてくださるでしょうか。神様は私のために良いことを望んでおられるでしょうか。」

もしそう信じなければ、私たちは信仰によって踏み出すことができません。むしろ、恐れによって立ち止まったままになります。

あなたはどうでしょうか。今、勝利を得ていると感じていますか。

私は正直に言います。多くの場合、恐れが私の前進を妨げています。「やっぱり、私はできない」と思ってしまうのです。

私はもっと神様に信頼し、信仰によって歩む必要があります。

だから、これを書きながら、自分自身に語りかけているのです。

主よ、私の人生において、勝利が欲しいです。けれども、「私はダメだ」と思ってしまうことが多いのです。また、過去の失敗を思い出して「無理だ」と感じてしまいます。

どうか、私が初期のイスラエル人のようにはならないようにしてください。むしろ、ダビデのように信仰によって踏み出し、勝利を得られるよう助けてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様は私のことを考えておられる

きれいな夜に星空を見上げたことがありますか。日本に来てから、私はそれをあまり見ません。時々、星が見えることもありますが、ほんの少しだけです。

けれども、ハワイの山にいた時、その星空は本当に素晴らしいものでした。その時、私は自分の小ささを感じました。そして、こう思いました。

「この宇宙がこんなに大きいのに、神様は私を愛しておられるのでしょうか。私の名前を知っておられるのでしょうか。私のために計画を持っておられるのでしょうか。信じられない。それは本当に素晴らしいことです。」

ダビデも、同じように感じたのです。新しい宮殿で王座に座りながら、彼はこう思いました。「私はこの素晴らしいところに住んでいるのに、神様は天幕にしかおられないのですか。」

そこで、ダビデは神様のために素晴らしい宮を建てる計画を立て始めました。

ところが、神様はダビデの計画を止められました。なぜでしょうか。第一の理由は、神様には宮が必要なかったからです。なぜなら、神様は霊であり、物理的な場所を必要とされなかったからです。

第二の理由は、ダビデが戦争で多くの人々を殺してきたことです。そのため、神様はそのような人が宮を建てることを望まれなかったのです。

おそらくダビデにとって、神様の言葉は少し辛いものであったかもしれません。けれども、神様はすぐにダビデを励まされました。神様はこう言われました。

「あなたは私のために家を建てたいと思いましたが、実際には私はあなたのために家を建てます。そして、あなたの王国と家を永遠に堅く立てます。」(第二サムエル記7:11-16)

イエス様は神の子でありながら、人間としてはダビデの子孫です。そのため、イエス様がこの世界に戻られる時、その預言を成就して、この世界を永遠に支配されます。

では、ダビデの反応はどのようなものだったのでしょうか。

神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足らない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。

神、主よ。これが人の定めでしょうか。(第二サムエル記7:18-19)

「私はいったい何者でしょうか。」

ダビデが理解したのは、自分が決して重要な人ではなかったということです。けれども、神様はダビデを粗末な場所からこの素晴らしいところまで導かれました。それはダビデ自身の栄光のためではなく、神様の栄光のためでした。

私たちは埃のように取るに足らない存在です。宇宙の中では小さな一点に過ぎません。しかし、神様は私たちに目を留め、私たちを愛しておられます。

それだけではありません。神様の手は私たちの上にあり、私たちを支え続けてくださいます。

ダビデはそれを理解し、こう記しました。

そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(詩編139:6)

あなたは、自分が愛されていないと感じることがありますか。必要とされていないと思うことがありますか。自分は取るに足らない存在だと思ってしまうことがありますか。

そんなときは、このことを思い出してください。

「神様は私のことをいつも心に留めておられます。

この広大な宇宙の中で、また、この世界で数え切れないほどの出来事が起きている中で、神様は私のことを考えておられるのです。神様は私を知っておられます。

そして、神様は私のために計画を持っておられます。」

私は一体何者なのでしょうか。
世界でただ一人の主が、
私の名前を覚えていてくださるとは。
私が悩んでいるときに、
神様が同情してくださるとは。

私は一体何者なのでしょうか。
明るく輝く明けの明星が、
迷い続ける心のために、
道を照らしてくださるとは。

私だからという理由ではなく、
あなたの行いによって、
私が何かをしたからではなく、
あなたの性格が素晴らしいからです。

私はすぐにしぼんでしまう花、
今日はあっても明日には消える存在、
海に打ちつけられる波、
風の中に漂う霧のようです。

それでもあなたは、
私が呼ぶときに耳を傾け、
倒れそうなときに助けてくださいます。
そして、あなたは私に、
「あなたは私のものだ」と教えてくださいました。

私は誰を恐れるでしょうか。
なぜなら、私はあなたのものだからです。

ーージョン・マーク・ホール

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サムエル記第二 歴代誌第一

苦々しい心は私たちを食い尽くす時

喜びの日であるはずだったのに、その最後はそうではありませんでした。

ダビデは自分の過ちに気づき、神様がオベデ・エドムという人をどのように祝福されたかを見て、その箱をエルサレムに運ぶことを決意しました。

ダビデは祭司たち、レビ人、ミュージシャン、歌手、イスラエルの長老、そして軍隊を集め、一緒にその箱を運びました。

その間、ダビデは飛び跳ねながら喜び踊っていました。

けれども、ある人がダビデを見ていました。それは妻のミカルでした。そして、それを見たとき、ミカルは心の中でダビデをさげすんだのです。

ダビデが家に帰ったとき、ミカルはこう言いました。

イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。

ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前に裸におなりになって。(第二サムエル記6:20)

この箇所を読むと、私はこう思います。「ミカルは本当にダビデの行動に反対していたのでしょうか。それとも、ミカルの心の中にはもっと深い問題があったのでしょうか。」

少し考えてみましょう。その前に、ミカルの父親と兄弟たちは戦争で命を落としていました。また、ミカルは愛していた夫から引き離されていました。(第二サムエル記3:13-16)

さらに、今のミカルはダビデの愛を巡り、6人の妻と競わなければならない状況にありました。

彼女が苦々しい思いを抱く権利があったとしても不思議ではありません。おそらく、ミカルの言葉はその苦々しい心から来たのだと思います。

私がダビデの行動を正当化しているわけではありません。ダビデは6人の妻と結婚し、神様の戒めを守りませんでした。(申命記17:17)

その時代の文化においてはダビデの行動は受け入れられていたかもしれませんが、神様は「多くの妻を持つことは禁じられています」と言われました。

さらに、私が以前言ったように、ダビデはミカルに「私に戻りたいですか」と尋ねるべきでした。

けれども、ダビデはミカルにその選択肢を与えませんでした。

それにしても、ミカルは自分の苦々しい心が自分自身を食い尽くすことを許したため、大変な状態は本当にみじめな状態へと変わりました。

第二サムエル記6:23の意味は少し微妙です。どうしてミカルは子供ができなかったのでしょうか。

神様が彼女の胎を閉じられたのでしょうか。

それとも、ダビデがミカルを避けたのでしょうか。

または、ミカルがダビデを避けたのでしょうか。それは明確には示されていません。

はっきりしていることは、その苦々しい心がミカルの死ぬまで続き、彼女自身をみじめにさせたということです。

あなたの心にはどうでしょうか。苦い根があるでしょうか。あなたは苦々しい思いを抱く権利があると思っているかもしれません。それは事実かもしれません。

しかし、重要なのは、あなたにその権利があるかどうかということではありません。むしろ、あなたがその苦い心があなたを滅ぼすことを許してしまうかどうかということです。

もしあなたが自分の苦々しい思いが自分を食い尽くすことを許してしまったら、次第にあなたの喜びは失われてしまいます。

私たち全員が辛い状況を経験します。私たちには皆、苦々しい思いを抱く理由があるかもしれません。

それでも、心に留めておいてください。私たちは常に状況をコントロールすることはできませんが、自分の反応をコントロールすることはできるのです。

あなたは苦々しい思いを抱き続けますか。それとも、自分の痛みを神様に委ね、神様の癒しを受け入れますか。

神様が私たちの問題を取り去られないこともあるかもしれません。しかし、苦難の中でも、神様はあなたに平和と喜びを与えてくださいます。

そして、神様はあなたの人生を意味あるものへと変えてくださるのです。

あなたはどちらを選びますか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

情熱はあるけど、服従がない

神様は情熱のある人々を好まれます。とはいえ、情熱だけでは十分ではありません。神様は服従も求められます。

この箇所で、ダビデはそのことを学びました。

ダビデは神の箱をエルサレムに持ち帰ることができて、本当に嬉しかったのです。

サウルの時代にはその箱が無視されていましたが(歴代誌第一13:3)、ダビデはサウルの過ちを繰り返したくありませんでした。神様がダビデの王国の中心におられることを望んだからです。

その箱をエルサレムに運んでいる間、ダビデとその民は力の限り踊り、歌い、楽器を演奏していました。

しかし、一つの問題がありました。昔、神様はその箱の運び方について具体的な指示を与えられていました。つまり、レビ人だけがその箱を運ばなくてはならなかったのです。

それにもかかわらず、ダビデはそれを守りませんでした。なぜでしょうか。おそらく、それを知らなかったからでしょう。または彼がこう思ったのかもしれません。

「一番運びやすい方法はカートだろう。では、新しいカートを作って使おう。」

そして、神の箱をその新しいカートの上に置き、牛に引かせる形にしました。

けれども、箱を運んでいる間に、牛がそれをひっくり返しそうになったため、ウザという人がその箱を押さえました。けれども、箱に触れることは禁じられていたのです。その結果、神様が彼を打たれたので、彼は死んでしまいました。

ダビデはそれを見たとき、非常に神様に怒りを覚えました。

しかし、後に彼は自分の罪に気づきました。ダビデは神様に対して情熱を持っていたものの、服従が欠けていたのです。

そのため、後にダビデはこう言いました。

最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。

私たちがこの方を定められたとおりに求めなかったからです。(歴代誌第一15:13)

その日、ダビデは本当に大切なことを学びました。情熱があることは素晴らしいことです。けれども、服従も必要です。情熱だけでは十分ではありません。私たちは神様の戒めを守るべきです。

時々、人々はこう考えます。

「どうして、天国に行きたいなら、イエス様しか行く方法がないのでしょうか。たくさんの誠実な人々が正しいことをしようとしていて、彼らは熱心に神様を求めていますが、クリスチャンではありません。どうして、彼らは天国に行くことができないのでしょうか。」

その理由は、真実さと情熱だけでは十分ではないからです。完全な情熱と完全な真実があったとしても、もし神様の戒めを守らなければ、それには意味がありません。

では、神様の命令とは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(第一ヨハネ3:23-24)

一番大切な命令はイエス様のみ名を信じることです。つまり、私たちの救いのためにイエス様を信じることを意味します。そうしないなら、私たちの真実さと情熱には意味がありません。

情熱のない服従は良くありません。なぜなら、神様は私たちの心を求めておられるからです。

とはいえ、服従のない情熱も良くありません。不従順は私たちが神様に信頼していないことを示します。

もう一度言います。神様は私たちの心を求めておられます。

そして、服従はその信頼の証しとなるのです。

あなたはどうでしょうか。従順さのない情熱を持っているでしょうか。

それとも、情熱のない服従をしているでしょうか。

あるいは、その両方があるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

欠点のある人々、力をもつ人々

たくさんの箇所をスキップしましたが、心配しないでください。明日、戻ります。けれども、年代順に話を進めたいので、この話はここで触れる方が良いと思います。

この箇所は、非常に興味深い人々についてです。ダビデがサウルから逃げていた時、この人々はダビデの元に集まってきました。そして、サウルが亡くなった後、この人々はダビデが王になることを助けました。

しかし、彼らはどのような人々だったのでしょうか。

第一サムエル記22:2には、このように書かれています。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。

そのような人々はダビデの軍隊となりました。つまり、欠点のある人々がダビデの民となったのです。

ヨアブ、アビシャイ、そしてアサエルを見ると、それがよく分かります。この三人は本当に殺伐な人々でした。彼らは相手を殺すのも早く、復讐するのも早かったのです。

ダビデの民のすべては、欠点のある人々でした。けれども、彼らには共通点がありました。彼らはダビデを愛し、ダビデに忠実だったのです。

ある日、ダビデがのどの渇きを覚えた時、彼の民はペリシテ人の陣営を突き抜けて、水を取って戻ってきました(第二サムエル記23:15–17)。

その後、ベニヤミンの人々(つまり、サウルの部族の人々)はダビデの元に行き、こう言いました。

ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。

平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。(歴代誌第一12:18)

そのダビデに対する愛と忠実さによって、彼らは素晴らしいことを成し遂げることができました。

私たちの神様との関係も同じです。私たち全員は欠点のある人々です。私たちは罪を犯し、弱さを抱えています。時には、その欠点に気づけないこともあります。

それでも、もし私たちが神様を愛し、心を尽くして神様に従うなら、神様は私たちを素晴らしいことを成すために用いてくださいます。

神様はどんな人でも、男性でも女性でも、用いることができます。しかし、神様はあなたの心を必要としておられます。神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

敵に追われている。神様を求めている。

ペリシテ人はすぐに、ダビデがイスラエルの王になったことを知りました。

ペリシテ人の王アキシュはどう感じたのでしょうか。驚いたでしょうか。裏切られたと思ったでしょうか。

とにかく、ペリシテ人はすぐに反応しました。彼らは皆、ダビデを狙って攻め上がってきたのです。もちろん、彼らはダビデを殺したかったのだと思います。

ペリシテ人がダビデを狙い、倒そうとしたように、サタンも私たちを狙って倒そうとします。

私たちがクリスチャンになる前は、サタンは私たちをあまり気にしませんでした。しかし、私たちが神様の国に入ると、サタンはすぐに私たちに注意を払うようになります。

それは、私たちがサタンの国から逃れ、その国にとって脅威となるからです。つまり、私たちは他の人々をサタンの国から救い出し、神様の国へと導く存在となるからです。

だからこそ、サタンは私たちにすぐ攻撃を仕掛けてくるのです。

それは、家族や友達、または同僚からの迫害であるかもしれません。あるいは、もっと微妙な方法を使ってくるかもしれません。例えば、サタンはいろいろな誘惑を通して私たちを倒そうとします。

私たちはどうすれば良いでしょうか。ダビデのように、私たちは神様を求めるべきです。

ダビデが神様を求めた時、神様は敵の攻撃からどう守るかを教えてくださいました。そしてダビデは勝利を収めました。

私たちも同じです。サタンがあなたを狙っているでしょうか。周りの人々から攻撃を受けていますか。それとも誘惑に直面していますか。

神様を求めてください。そして、神様の助けを求めてください。

そうすれば、神様はどうすれば良いかを教えてくださり、勝利を収めるための力を与えてくださいます。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様の栄光と国と民のため

長い間逃亡者として生きていた後、ダビデはついに全イスラエルの王となりました。その印の一つとして、ダビデのために宮殿が建てられました。そして、その王座に座ったとき、ダビデは悟りました。

主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされた。(第二サムエル記5:12)

ダビデが理解したのは、神様がダビデ自身の目的のために彼を王にされたのではないということです。むしろ、神様の目的のためにダビデを王にされました。

そして、その民がダビデに仕えるためではなく、むしろダビデがその民に仕えるために、神様は彼を王にされたのです。

私たちはこのことを理解しているでしょうか。つまり、神様はあなたをご自身の子供として選ばれ、ご自身の国においてあなたにポジションを与えられました。

しかし、それはあなたの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたが自分の国を築くためではなく、むしろ神様の国を築くためなのです。

また、あなたの立場は、他の人々があなたに仕えるためではなく、むしろあなたが他の人々に仕えるために与えられたのです。

この真実を理解していないと、神様が私たちのために用意してくださっている目的を見失ってしまいます。

多くのクリスチャンが自己中心的で、自分のことや自分の立場、自分の栄光ばかりを考えます。

私もそのように考えてしまうことがあります。

しかし、私たちの人生は自己中心的であってはなりません。むしろ、神様中心であり、神様の目的を中心としたものであるべきです。

あなたは誰に仕えていますか。誰の栄光を求めていますか。誰のために生きていますか。

私はある曲の歌詞が大好きです。

あなたの栄光のために、
御国のために、
あなたの御名のために、
私はここにおります。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様が私たちの味方であれば

「私はこの罪を乗り越えることができない。勝利をおさめることができない。」

そう思ったことはありませんか?私も罪と戦う中で、時々がっかりすることがあります。そのような時、サタンは私を見て、さらに責め立てます。

「あなたは本当にクリスチャンなのですか?あなたなんて絶対だめです。他のクリスチャンは罪に勝つけれど、あなたはいつも負けるのです。この罪はあまりにも強大で、あなたは決して乗り越えることなどできない。」

ダビデとその民がエルサレムの城壁の外にいた時、敵は同じようなことを言いました。彼らはダビデを侮辱し、こう言い放ちました。

あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる。(第二サムエル記5:6)

その時、彼らはこう思いました。「ダビデがここに来ることはできない。」

同じように、サタンは「私は勝った。このクリスチャンはその罪を決して捨てることができない。」と思うとき、私たちを侮辱し始めます。

けれども、ダビデはどうしたでしょうか。彼は作戦を立てました。そして、彼はその民にこう言いました。

だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む、目の見えない者、足のなえた者を打て(第二サムエル記5:8)

そして、ヨアブの助けによって、その敵を征服することができました。

しかし、良い作戦とヨアブの助けだけではなく、神様の力によって征服することができました。第二サムエル記5:10にはこう書かれています。

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。

つまり、神様がダビデとともにおられたからこそ、勝利を収めることができたのです。

もちろん作戦は必要でした。もちろん、他の人々の助けも必要でした。

けれども、結局のところ、ダビデが勝利できたのは神様の力によるものでした。

同じように、私たちが罪と戦う時も作戦が必要です。もし欲情と戦うなら、ある場所を避けた方が良いでしょう。例えば、ビデオレンタル店を避けるべきかもしれません。

また、他の人々の助けが必要な場合もあります。私たちのために祈り、アドバイスを与え、「今週はどうですか」と尋ねることで私たちを助けてくれるでしょう。

しかし、結局のところ、私たちが勝利するのは神様が私たちの味方であるからです。それは私たちの力や努力だけによるものではありません。

パウロはこう言いました。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:13)

あなたは罪と戦っていますか。落ち込んでいますか。

神様があなたの味方であることを心に留めておきましょう。作戦を立てましょう。他の人々の助けを求めめましょう。

けれそも、最終的には、私たちが勝利できるのは、神様の恵みと助けによるものだということを覚えておきましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様を待ち望む

私は待つのが本当に大嫌いです。店でレジの列に並ぶのも嫌いだし、交差点で信号を待つのも嫌いです。病院で待つことも大嫌いです。

だから、ダビデの態度がよく理解できません。想像すらできません。

ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、ダビデは10歳の時にサムエルから油を注がれました。その際、サムエルは「あなたは次のイスラエルの王になる。神様があなたを選ばれた」と告げました。

もし10歳だったとすると、ダビデはユダの王になるまで20年間も待ち、さらに全イスラエルの王になるまで27年間待ったことになります。

ダビデは忍耐強く待ち続けました。それだけでなく、待つ間にさまざまな試練を経験しました。

最初はイスラエルのヒーローとして称えられたのに、その後すぐに逃亡者となり、何度も命を狙われる状況に直面しました。

それでもなお、良い時でも悪い時でも、たとえ疑いが生じたとしても、ダビデは神様を待ち望むことを決して諦めませんでした。

ダビデは二度、神様を待ち望まずに王になるために行動する機会がありました。つまり、サウルを殺すことができる状況が二度あったのです。

しかし、それをしないでダビデは神様を待ち望み続け、神様のタイミングを信じて待ちました。

どうしてそれができたのでしょうか。私にとって、赤信号で待つだけでも非常に辛いです。

その鍵は、ダビデが神様が約束を必ず守る方であると信じていたことにあります。

ダビデは自分の手でコントロールしようとせず、神様の手に全てを委ねました。また、神様の戒めを忠実に守り続けました。

その結果、神様はダビデを良いところへと導いてくださいました。

私たちもダビデの例に従うなら、神様は私たちに対しても同じようにしてくださるでしょう。

一方、サウルはそれができませんでした。ペリシテ人がイスラエルを攻撃した時、サウルはサムエルや神様の救いを待たずに、自分でいけにえを捧げて罪を犯しました。

さらに、彼は神様の祝福を待たずに、自ら祝福を得ようとしました。

例えば、イスラエル人がアマレク人との戦いの前に、神様はこう言われました。「彼らを征服したら、彼らの物をすべて私に捧げなさい。」

それなのに、サウルは自分のために一番良いものを持ち帰りました。

この二つの事件によって、神様はサウルをイスラエルの王として退けました。

あなたはどうでしょうか。 あなたは何のために待っていますか。仕事ですか。妻ですか。夫ですか。

神様があなたの必要を備えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

また、神様が良い未来を与えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

ですから、神様の言葉に背いて、「私は自分の力で何かをしなければならない」と考えないでください。

神様を待ち望み続けましょう。神様に信頼し続けましょう。神様の言葉を守り続けましょう。

そうすれば、神様は必ず約束を守ってくださいます。

ダビデはこう書きました。

 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。。。

私たちのたましいは主を待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。(詩篇33:18、20-22)

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サムエル記第二

リーダーがしっかりとリードしないと

イシュ・ボシェテの王位はあまり長く続きませんでした。彼の民はイシュ・ボシェテを殺し、その首をダビデに持参しました。

当然、ダビデは怒り、その人々を殺しました。(けれども、これを読むと、私はこう思います。「ダビデは、この人々を殺人の罪で即座に殺したのに、なぜヨアブを同じ罪で罰しなかったのだろうか。」)

とにかく、この箇所を読むと、一節が特に印象に残ります。

サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。イスラエル人もみな、うろたえた。(サムエル記第二4:1)

多分、イシュ・ボシェテの民が彼を殺した理由は、彼が弱いリーダーだったからです。彼はアブネルにあまりにも依存していたため、アブネルが死んだ後、イシュ・ボシェテは希望を失いました。

問題は、リーダーがしっかりとリードしないと、彼の民に悪影響を与えてしまうことです。イシュ・ボシェテの恐れが彼の民の恐れとなったのです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

「私はリーダーじゃない」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたに子供がいるなら、あなたは子供のリーダーです。先生や日曜学校の先生なら、生徒のリーダーです。もし誰かのロールモデルであるなら、あなたはその人のリーダーです。

そして、困難な時、彼らはあなたの指示を求めます。

その時、あなたはどうしますか。あなたは他の人々に頼るでしょうか。他の人々の力に頼るでしょうか。

もちろん、そのような人々がいることは良いことです。しかし、もし彼らがいなかったら、あなたはパニックに陥るでしょうか。

それとも神様を仰ぎ、知恵と助けを求めて祈るでしょうか。

私たちは、神様に頼るリーダーにならなければなりません。そうでなければ、イシュ・ボシェテのようにパニックに陥り、私たちに従う人々も同じ状況に陥ってしまいます。

そして結局、私たち自身にも、また私たちに従う人々にも、すべてが悪い結果となるでしょう。

あなたは、どのようなリーダーでしょうか。

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サムエル記第二

自分の動機を問う

この箇所には多くの政治的な陰謀があります。そして、この箇所を読むと、私は自分の動機を問うことの大切さについて考えさせられます。

アブネルは正しいことをしました。つまり、ダビデを支持したのです。とはいえ、それは悪い理由によるものでした。

サウルの息子イシュ・ボシェテは、アブネルにこう言いました。

あなたはなぜ、私の父のそばめと通じたのか。(サムエル記第二3:7)

アブネルがその罪を本当に犯したかどうかは分かりません。けれども、もしイシュ・ボシェテの告発が本当だったとすれば、その文化においては、アブネルが王位を狙っていたという意味になります。そのため、イシュ・ボシェテは怒りました。

アブネルはその言葉を聞いて怒りました。もしその告発が間違っていれば、それは当然のことです。もしその告発が本当だったとすれば、おそらくアブネルは自分の罪について聞きたくなかったのでしょう。

とにかく、アブネルはこう言いました。

主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私が彼に果たせなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられますように。(9)

つまり、アブネルはダビデが神様に選ばれたことを知っていました。

それにもかかわらず、最初アブネルはダビデに従わず、イシュ・ボシェテに従い続けました。

しかし、アブネルがイシュ・ボシェテに怒りを覚えたとき、ダビデに従い始めました。

ヨアブはさらに悪い行動を取りました。悪い理由で悪いことをしたのです。

彼は復讐のためにアブネルを殺しました。なぜなら、アブネルが戦争の中でヨアブの弟を殺したからです。ヨアブは戦争中にアブネルを殺さず、一対一の戦いでも殺しませんでした。むしろ、アブネルが何も予期していないときにヨアブは彼を殺しました。

ヨアブにはもう一つの動機があったかもしれません。つまり、ダビデがヨアブを捨ててアブネルを将軍にするのではないかと恐れていたのかもしれません。

ダビデの行動も少し疑わしいところがあります。ダビデはイシュ・ボシェテにこう言いました。

私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。(14)

通常の場合、その願いは珍しいものではありません。

けれども、ダビデがサウルから逃げている間、サウルはミカルを別の男性に与え、彼らは結婚しました。そして、その男性はミカルを本当に愛していました。

ミカルがどう感じていたかは分かりませんが、彼女の後の行動を見ると、おそらく彼女もその人を愛していたのではないかと思います。ダビデはミカルが何を望んでいるのかを尋ねるべきでした。

なぜ、ダビデはそのような行動を取ったのでしょうか。ダビデはまだミカルを愛していたかもしれませんが、彼には他の妻たちもいました。彼が彼女を本当に愛していたのでしょうか。

もしかすると、彼は「もしサウルの娘と結婚すれば、イスラエル人は私を王として受け入れるだろう」と考えたのかもしれません。

ダビデの動機は分かりませんが、彼の行動が正しいかどうか疑問に思います。

最後の質問は、なぜダビデがヨアブの裏切りを罰しなかったのかということです。

神様の律法によれば、ヨアブは殺されるべきでした。それでも、ダビデはそれをしませんでした。それはなぜでしょうか。

ダビデはこう言いました。

この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々(つまり、ヨアブとその兄弟たち)は、私にとっては手ごわすぎる。(39)

多分、ダビデが考えたのは、もしヨアブを殺せば、彼の軍隊が崩れてしまうということだったのでしょう。なぜなら、ヨアブは本当に優れた将軍だったからです。

さらに、ダビデは自分の甥を殺したくなかったのかもしれません。(ヨアブはダビデの甥でした。)

後に、ダビデはソロモンにヨアブを罰するよう願いましたが、ダビデが生きている間に何もしませんでした。それは悪い決断だったと思います。

私たちの人生には、何をするのか、そしてその動機は何なのかという問いがあります。

最終的に、私たちは神様からその問いを受けるのです。

私たちは良い答えを差し出すことができるでしょうか。それとも、恥ずかしさを覚えることになるのでしょうか。