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サムエル記第二

自分の動機を問う

サムエル記第二3:6-38

この箇所には多くの政治的な陰謀があります。そして、この箇所を読むと、私は自分の動機を問うことの大切さについて考えさせられます。

アブネルは正しいことをしました。つまり、ダビデを支持したのです。とはいえ、それは悪い理由によるものでした。

サウルの息子イシュ・ボシェテは、アブネルにこう言いました。

あなたはなぜ、私の父のそばめと通じたのか。(サムエル記第二3:7)

アブネルがその罪を本当に犯したかどうかは分かりません。けれども、もしイシュ・ボシェテの告発が本当だったとすれば、その文化においては、アブネルが王位を狙っていたという意味になります。そのため、イシュ・ボシェテは怒りました。

アブネルはその言葉を聞いて怒りました。もしその告発が間違っていれば、それは当然のことです。もしその告発が本当だったとすれば、おそらくアブネルは自分の罪について聞きたくなかったのでしょう。

とにかく、アブネルはこう言いました。

主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私が彼に果たせなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられますように。(9)

つまり、アブネルはダビデが神様に選ばれたことを知っていました。

それにもかかわらず、最初アブネルはダビデに従わず、イシュ・ボシェテに従い続けました。

しかし、アブネルがイシュ・ボシェテに怒りを覚えたとき、ダビデに従い始めました。

ヨアブはさらに悪い行動を取りました。悪い理由で悪いことをしたのです。

彼は復讐のためにアブネルを殺しました。なぜなら、アブネルが戦争の中でヨアブの弟を殺したからです。ヨアブは戦争中にアブネルを殺さず、一対一の戦いでも殺しませんでした。むしろ、アブネルが何も予期していないときにヨアブは彼を殺しました。

ヨアブにはもう一つの動機があったかもしれません。つまり、ダビデがヨアブを捨ててアブネルを将軍にするのではないかと恐れていたのかもしれません。

ダビデの行動も少し疑わしいところがあります。ダビデはイシュ・ボシェテにこう言いました。

私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。(14)

通常の場合、その願いは珍しいものではありません。

けれども、ダビデがサウルから逃げている間、サウルはミカルを別の男性に与え、彼らは結婚しました。そして、その男性はミカルを本当に愛していました。

ミカルがどう感じていたかは分かりませんが、彼女の後の行動を見ると、おそらく彼女もその人を愛していたのではないかと思います。ダビデはミカルが何を望んでいるのかを尋ねるべきでした。

なぜ、ダビデはそのような行動を取ったのでしょうか。ダビデはまだミカルを愛していたかもしれませんが、彼には他の妻たちもいました。彼が彼女を本当に愛していたのでしょうか。

もしかすると、彼は「もしサウルの娘と結婚すれば、イスラエル人は私を王として受け入れるだろう」と考えたのかもしれません。

ダビデの動機は分かりませんが、彼の行動が正しいかどうか疑問に思います。

最後の質問は、なぜダビデがヨアブの裏切りを罰しなかったのかということです。

神様の律法によれば、ヨアブは殺されるべきでした。それでも、ダビデはそれをしませんでした。それはなぜでしょうか。

ダビデはこう言いました。

この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々(つまり、ヨアブとその兄弟たち)は、私にとっては手ごわすぎる。(39)

多分、ダビデが考えたのは、もしヨアブを殺せば、彼の軍隊が崩れてしまうということだったのでしょう。なぜなら、ヨアブは本当に優れた将軍だったからです。

さらに、ダビデは自分の甥を殺したくなかったのかもしれません。(ヨアブはダビデの甥でした。)

後に、ダビデはソロモンにヨアブを罰するよう願いましたが、ダビデが生きている間に何もしませんでした。それは悪い決断だったと思います。

私たちの人生には、何をするのか、そしてその動機は何なのかという問いがあります。

最終的に、私たちは神様からその問いを受けるのです。

私たちは良い答えを差し出すことができるでしょうか。それとも、恥ずかしさを覚えることになるのでしょうか。

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