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サムエル記第二 歴代誌第一

情熱はあるけど、服従がない

サムエル記第二6:1-9;歴代誌第一13:1-13、15:13

神様は情熱のある人々を好まれます。とはいえ、情熱だけでは十分ではありません。神様は服従も求められます。

この箇所で、ダビデはそのことを学びました。

ダビデは神の箱をエルサレムに持ち帰ることができて、本当に嬉しかったのです。

サウルの時代にはその箱が無視されていましたが(歴代誌第一13:3)、ダビデはサウルの過ちを繰り返したくありませんでした。神様がダビデの王国の中心におられることを望んだからです。

その箱をエルサレムに運んでいる間、ダビデとその民は力の限り踊り、歌い、楽器を演奏していました。

しかし、一つの問題がありました。昔、神様はその箱の運び方について具体的な指示を与えられていました。つまり、レビ人だけがその箱を運ばなくてはならなかったのです。

それにもかかわらず、ダビデはそれを守りませんでした。なぜでしょうか。おそらく、それを知らなかったからでしょう。または彼がこう思ったのかもしれません。

「一番運びやすい方法はカートだろう。では、新しいカートを作って使おう。」

そして、神の箱をその新しいカートの上に置き、牛に引かせる形にしました。

けれども、箱を運んでいる間に、牛がそれをひっくり返しそうになったため、ウザという人がその箱を押さえました。けれども、箱に触れることは禁じられていたのです。その結果、神様が彼を打たれたので、彼は死んでしまいました。

ダビデはそれを見たとき、非常に神様に怒りを覚えました。

しかし、後に彼は自分の罪に気づきました。ダビデは神様に対して情熱を持っていたものの、服従が欠けていたのです。

そのため、後にダビデはこう言いました。

最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。

私たちがこの方を定められたとおりに求めなかったからです。(歴代誌第一15:13)

その日、ダビデは本当に大切なことを学びました。情熱があることは素晴らしいことです。けれども、服従も必要です。情熱だけでは十分ではありません。私たちは神様の戒めを守るべきです。

時々、人々はこう考えます。

「どうして、天国に行きたいなら、イエス様しか行く方法がないのでしょうか。たくさんの誠実な人々が正しいことをしようとしていて、彼らは熱心に神様を求めていますが、クリスチャンではありません。どうして、彼らは天国に行くことができないのでしょうか。」

その理由は、真実さと情熱だけでは十分ではないからです。完全な情熱と完全な真実があったとしても、もし神様の戒めを守らなければ、それには意味がありません。

では、神様の命令とは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(第一ヨハネ3:23-24)

一番大切な命令はイエス様のみ名を信じることです。つまり、私たちの救いのためにイエス様を信じることを意味します。そうしないなら、私たちの真実さと情熱には意味がありません。

情熱のない服従は良くありません。なぜなら、神様は私たちの心を求めておられるからです。

とはいえ、服従のない情熱も良くありません。不従順は私たちが神様に信頼していないことを示します。

もう一度言います。神様は私たちの心を求めておられます。

そして、服従はその信頼の証しとなるのです。

あなたはどうでしょうか。従順さのない情熱を持っているでしょうか。

それとも、情熱のない服従をしているでしょうか。

あるいは、その両方があるでしょうか。

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