この箇所では、裏切りと尽きることのない忠実さのテーマを見ることができます。
ダビデの息子アブシャロムや議官アヒトフェルからは、裏切りを見ることができます。
その一方、ダビデの友人であるイタイ、フシャイ、そして祭司たちからは、忠実さを見ることができるのです。
中でも、イタイは最も素晴らしい人物だと思います。
彼は外国人であり、亡命者でした。ダビデはイタイを受け入れて世話をしましたが、突然、ダビデ自身も亡命者となりました。
それにもかかわらず、イタイはダビデと共に行くことを望みました。
ダビデはイタイがエルサレムに残ることを説得しようとしてこう言いました。
どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。
戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。
あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。
あなたはあなたの同胞を連れて戻りなさい。恵みとまことが、あなたとともにあるように。(サムエル記第二15:19-20)
でも、イタイはこう答えました。
主の前に誓います。王さまの前にも誓います。
王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。(21)
ダビデはイタイに親切を示したので、大変な状態になっても、イタイはダビデに従うことを決心していました。
イエス様も私たちにそのような愛と決心を望んでおられます。
弟子になりたい人に対してイエス様が語られた言葉は、ダビデがイタイに語った言葉に似ているのです。
狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ 8:20)
つまり、イエス様に従うことは時々難しいです。いつも楽なことばかりではありません。
だから、私たちが自分自身に問いかけるべきことは、次のことです。
「私はどれほどイエス様を愛しているでしょうか。イエス様はサタンの国から私たちを救い出し、私たちの罪を赦してくださいました。そして、今、私たちは神様の子供となりました。だから、大変な時が来ても、私はイエス様に従い続けるでしょうか。」
マタイはイエス様の弟子になりたい人の選択について記しませんでした。
彼らは弟子になったのでしょうか。
それとも、難しすぎると思い、イエス様のもとを去ってしまったのでしょうか。
あなたはどうでしょうか。何を選びますか。
