「神様はどこでしょうか。」
時々、試練の中で、私たちはこのように問いかけます。
「神様は私を見ていてくださるでしょうか。私の声を聞いてくださるでしょうか。」
ダビデもそのように感じることがあったのではないでしょうか。
けれども、自分の人生を振り返った時、ダビデはこの詩篇を書きました。
その時、ダビデは神様が自分をどれほど守り、祝福してくださったかを悟りました。そして、彼はこう書きました。
死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。(第二サムエル記22:5-6)
ダビデは、サウルやアブシャロムのことについて考えていたかもしれません。
また、ある戦いの記憶が頭をよぎっていたのかもしれません。その戦いの日、イシュビ・ベノブというペリシテ人が、疲れ果てたダビデに向かって「今、あなたを殺す」と宣言しました。
ダビデは、命の危険を感じて本当に恐れていたに違いありません。けれども、アビシャイがダビデを助け、そのペリシテ人を打ち倒しました。
それが、ダビデにとって最後の戦いとなりました(第二サムエル記21:16–17)。
そのことを思い起こしながら、ダビデは歌いました。
私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。。。
主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。
主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救いだされた。彼らは私より強かったから。
彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。
主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。(第二サムエル記22:7,17-20)
この言葉を見るたびに、神様が私たちを罪からどのように救ってくださったかを思い起こします。
私たちの罪によって、私たちは死に値していました。しかし、私たちが神様に向かって叫んだ時、神様は私たちの声を聞き、大水から引き上げてくださいました。
自分自身では救われることができない時、神様は私たちを救い、広いところへ導き出してくださいました。
さらに、私たちが神様の助けが必要だと気付く前に、神様は人間としてこの世界に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。
だからこそ、ダビデのように私たちもこう言うことができます。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。(第二サムエル記22:2-3)
神様は私たちを救うだけではなく、私たちが戦う時には力を与えてくださいます。ダビデはこう書きました。
この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。(第二サムエル記22:33-34)
神様は私たちを救われた後、「では、自分自身の力で生きなさい」とは決して言われません。
むしろ、私たちがこの人生を歩んでいる間、神様は常に私たちと共に歩み、助けてくださいます。
鍵となるのは、私たちが神様に目を留め、謙遜に従うことです。
そして、ダビデはこう言いました。
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。(第二サムエル記22:26-28)
ペテロもこう書きました。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ペテロ5:6-7)
あなたは悲しんでおり、神様が本当におられるのか、また神様があなたを愛してくださっているのか問いかけているかもしれません。
そのような時は、ダビデの歌を思い出してください。そして、その歌を心の中で歌い続けましょう。
ダビデを助けてくださった神様は、きっとあなたも助けてくださいます。
だからこそ、謙遜な心で神様に従い続けましょう。
