この箇所は少し難解です。
第二サムエル記24章と歴代誌第一21章を比較すると、違いが見られます。
歴代誌第一21章には、こう書かれています:
サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(歴代誌第一21:1)
けれども、第二サムエル記24章によると、
さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。
主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。(サムエル記第二24:1)
どのようにしてその二つの箇所を説明できるでしょうか。確かに矛盾しているように見えます。私自身も完全には理解していません。
とはいえ、列王記第一22章19-22を読むことで、何らかのヒントが得られるかもしれません。
その箇所には、イスラエルの歴史の中で最も悪い王の一人が登場します。その王はアハブという人物でした。
そして、神様の御心はアハブが死ぬことでした。そのため、神様はこう問いかけられました。
だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないのか。(列王記第一22:20)
そして、ある霊(たぶん悪霊)はこう答えました。
私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。(列王記第一22:22)
だから、神様はその霊に許可を与えたため、結果的にアハブは死にました。
もしかすると、このダビデの話でも、同じようなことが起こったのかもしれません。
イスラエル人が罪を犯したために、神様は彼らを罰したいと望まれました。そのため、神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えました。
そして、ダビデは自分のプライドに負けて、イスラエルの人口を数えるという罪を犯しました。
この罪、そしてほかのイスラエル人たちの罪を通して、神様は彼らを罰されました。
これは本当に理解が難しい箇所です。
一見すると、神様が不公平であるように感じられます。なぜなら、神様がダビデに罪を犯させたかのように見えるからです。
けれども、その考え方は誤りです。
神様はダビデに罪を犯させたのではありません。神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えましたが、ダビデ自身が罪を犯すかどうかを選択する責任がありました。
そして、ダビデは罪を犯す道を選びました。
ヤコブはこう書きました。
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13-15)
つまり、私たちは自分の心の中にある悪によって誘惑されます。
私たちが善良な存在だったのに神様が私たちに悪を植え付けたというわけではありません。
私たちの心には悪があり、それが誘惑によって引き出されるのです。
しかし、忘れてはならないのは、悪が現れるのは私たち自身の選択によるということです。
サタンがダビデを誘惑する前から、ダビデの心の中にはプライドが存在していました。サタンはただそのプライドを引き出したに過ぎません。
そのプライドは罪を生み、そして罪が熟すと死を生みました。罪の結果は死だからです。
悲しいことですが、死と破壊は罪の避けられない結果なのです。
神様にとって罪は本当に深刻なものです。神様は罪を必ず罰しなければなりません。
しかし、素晴らしい知らせがあります。それは、神様がその代価をすでに払ってくださったことです。
ダビデは、自分の罪のためにいけにえをささげる際、必要なもの(土地と牛)を所有者から購入しようとしました。
けれども、その所有者はこう言いました。「すべてを王に差し上げます。」
(おそらく、剣を持つ天使を見て恐怖を感じ、それを言ったのかもしれません。)(歴代誌第一21:20、27)
それに対して、ダビデはこう答えました。
いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(第二サムエル記24:24)
神様は同じようなことを語られました。「私は費用をかけずにいけにえを捧げない。代価が必要です。」
そのため、神様は人間としてこの世に来られ、私たちの罪のために命を捧げてくださいました。その死によって、神様は罪の結果に対する代価を永遠に払ってくださいました。
そして、死の剣がさやに納められ、神様はすべての人に永遠の命を提供してくださいます。
ローマ6:23には、このように書かれています。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
