聖書で、ダビデは二回悔い改めなくてはならなかった。一つ目はバテ・シェバの事件でした。二つ目はダビデがイスラエル人を数えた時です。
その後で、ダビデは二つの詩篇を書きました。詩篇51篇はバテ・シェバの事件に関する詩篇でした。
とはいえ、悔い改めとは何でしょうか。クリスチャンたちはその言葉をよく使いますが、どういう意味でしょうか。
1.悔い改めは自分の罪を認めることです。
ダビデはこう書きました。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。(詩篇51:3)
ダビデは、ずっと自分の罪を隠そうとしました。自分の心の中で、「私の行動はあまり悪くなかった。」と思っていました。
けれども、もうその罪を隠すことができなくなり、正直に「私は罪を犯しました」と認めなくてはなりませんでした。
2.悔い改めは私たちが神様に対して罪を犯したことを認めることです。
もちろん、ダビデはウリヤに対して罪を犯しました。しかし、それよりも、ダビデは神様に対して罪を犯しました。
時々、私たちは言います。「私の罪は他の人を傷つけなかった。私だけが影響を受けた。」
けれども、私たちは罪を犯すと神様を悲しませます。ダビデは、そのことが分かったから、これを書きました。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。(4)
3.悔い改めはあなたが神様の道と裁きが正しいと認めることです。
「この場合は例外ですよ」と言う余地はありません。
「あなたは厳しすぎる」と文句を言う余地もありません。
むしろ、悔い改める時に、私たちは言います。「あなたは正しいです。私は悪かった。」
ダビデはこう書きました。
それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(4b)
4.悔い改めはあなたが神様の憐れみに頼ることです。
あなたが有罪で、死に値し、あなたの救いが神様の憐れみに頼ることを認めることです。
だから、ダビデは祈りました。
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。。。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。。。
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。(1,11,14節)
5.悔い改めは赦しのために願うことです。
ダビデは願いました。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。。。
ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。。。
御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。。。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。(2,7,9-10節)
6.悔い改めは神様が心の変化を望んでおられることを認めることです。言葉と犠牲だけでは足りないことを認めることです。
多くの場合、人々は悔い改めの祈りをしますが、心から祈らないことがあります。
彼らは自分の罪を告白しますが、変わるつもりがありません。彼らにとって、神様の恵みは汚れた足を拭くマットでしかありません。けれども、拭きながら、彼らは次の罪を考えています。
または、彼らは少し「犠牲」をささげます。教会で献金をささげたり、チャリティのために良いことをしたり、誰かのために良いことをしたりします。彼らは自分の悪い行いを良い行いによって帳消しにできると思っています。
しかし、ダビデはこう書きました。
たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(16ー17)
砕かれた霊は罪に関して軽く考えません。悔いた心は次の罪について考えません。むしろ、ダビデのように、その人は祈ります。
あなたに喜んで従う霊を与えてください。(12節、英訳)
あなたはどうですか。あなたの悔い改めの祈りは言葉だけでしょうか。もしくは、あなたの罪を本当に認めるでしょうか。
あなたの罪が神様を悲しませることが分かりますか。あなたの惨めさが分かって、神様の憐れみを求めるでしょうか。
また、罪を憎んで、罪と戦うでしょうか。そして、神様の助けのために願うでしょうか。
それが悔い改めです。
あなたの心はどうですか。
