このブログを書く前にちょっとお知らせがあります。歴代誌第一1-9章について、私はあまり書きません。
その箇所から少しずつ主題を選び取って書いていきます。
(例えば、前のブログで、門衛の役割について話しました。)
とにかく、この箇所には興味深いことがあります。
時々リストを読むのはつまらないかもしれませんが、注意深く読むと興味深いことが見つかります。
この箇所もそのような場所です。
ダビデとバテ・シェバには四人の息子がいました。その中の一人の名前はナタンでした。
それを読んだとき、私はびっくりしました。ナタンはダビデのバテ・シェバとの罪についてダビデを責めました。彼は神様の裁きを宣言しました。
それにもかかわらず、数年後にダビデとバテ・シェバは自分の息子にナタンと名付けたのです。
そのことから、私たちはダビデの性格を知ることができます。
ナタンがダビデを責めたとき、ダビデはそれを受け入れて、悔い改めました。
それだけではなく、ナタンを友人として受け入れ続けました。そして、自分の息子をナタンと名付けたのです。
この箇所から、ナタンの性格も知ることができると思います。
もし私がナタンであれば、友人がそのような酷い罪を犯した場合、多分その友人を避けるかもしれません。
特にダビデの場合、バテ・シェバはまだ結婚していたので、その二人を見て彼らを責め続けるのは簡単なことだと思います。
でも、ナタンはダビデの悔い改めの心を見ました。また、ナタンはダビデとバテ・シェバに対する神様の恵みと憐れみを理解しました。
だから、ナタンはその同じ恵みと憐れみを彼らに示したのです。
この箇所から、二つのことを学ぶことができると思います。
一つ目は、あるクリスチャンが自分の罪を悔い改めるとき、神様のように私たちはその人に恵みと憐れみを与えるべきではないか、ということです。
その場合、その人を裁き続けるのは簡単です。特にその罪がとても酷い場合は、彼らを責め続けるのは簡単です。
私は友だちがいました。彼はクリスチャンでしたが、不倫によって妻と離婚しました。その後、彼は悔い改めて再婚しました。 (しかし、最終的には別の人と結婚することになりました。)
それにもかかわらず、まだ私たちの間には少し距離が残っています。
今は彼に会う機会が全くありません。でも、その機会が訪れるとき、私は彼を許して恵みと憐れみを示さなければならないと思います。神様がそうしてくださったからです。
二つ目のことは、私たちが間違ったとき、友だちが私たちを責めるなら、その言葉を受け入れるかどうかということです。
つまり、私たちはその言葉を受け入れて変わるのでしょうか。
それとも、その言葉を拒み、その友だちをも拒むのでしょうか。
ソロモンは記しました。
あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。
憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5-6)
愛とは、相手が聞きたいことを語ることではありません。
愛とは、相手が聞く必要のあることを語ることです。
時には、それが相手を傷つけることもあります。
また、相手が私たちを責めることで、私たち自身も傷つけられることがあります。
しかし、もしその言葉を受け入れるなら、その言葉を通して神様は私たちを変えてくださいます。そして、私たちはさらに神様に似る者とされていくのです。
あなたはどうでしょうか。友だちからの傷を受け入れることができるでしょうか。
また、友だちが間違ったとき、率直に責めるでしょうか。それとも、「彼らを愛している」から何も言わずにいるのでしょうか。
私たちは周りの人々に対して、忠実な友だちとなることができますように。
