カテゴリー
列王記第一

裁きの時間

列王記第一2:5-46

正直に言うと、私はこの箇所を読むと、ダビデの戒めに同意できません。特に、シムイとヨアブに関する戒めには同意できません。

もちろん、ヨアブは罰に値しました。ヨアブは将軍として自分の地位を守るために二度も人を殺しました(アブネルとアマサ)。

私が賛成できないのは、ダビデ自身がヨアブを罰しなかったことです。むしろ、息子ソロモンにそれを任せました。だから、結局ヨアブの罰は正義でしたが、それはあまりに遅すぎました。どうしてダビデが待っていたのか、納得のいく理由はありません。

ヨアブに関しては、ダビデの行動に問題があったと思いますが、シムイに関してはダビデがもっと悪かったと感じます。

以前、ダビデはシムイを殺さないことを約束しました(第二サムエル記19:23)。

それにもかかわらず、この箇所ではダビデはソロモンにシムイを罰するように命じたのです。

今は、「シムイ」を罪のない者としてはならない。

あなたは知恵のある人だから、彼にどうすれば彼のしらが頭を血に染めてよみに下らせるかを知るようになろう。(列王記第一2:9)

もちろん、神様の律法によって、シムイが王様を呪ったことは罪に当たります。神様の律法では、王様を呪うことは神様を呪うことに等しいとされています(出エジプト記22:28;列王記21:13)。

ですから、神様の律法によれば、その人は死に値します。

とはいえ、ダビデがシムイを許したことを考えると、ソロモンに対するダビデの戒めは適切ではなかったと感じます。

それでも、もしシムイがソロモンの命令に従っていれば、殺されることはなかったでしょう。シムイはソロモンの戒めを理解し、従うと約束しました。

そのため、私はダビデの戒めが良くなかったと思う一方で、シムイの死は彼自身の責任だったとも思います。

そして、ソロモンの兄アドニヤについて。

アドニヤは最後まで王になる野心を諦めませんでした。そのため、彼はダビデのそばめであったアビシャグと結婚したいと願いました。

その当時の文化では、以前の王のそばめと結婚することは、王位への野心を公然と宣言する行為に等しいとみなされていました。

結果として、ソロモンはアドニヤの過去の罪を許していたのに、次の罪によってアドニヤを処刑しました。

この箇所によって、私たちは何を学べるでしょうか。

ダビデの命令に同意できないため、このアナロジーは完璧ではありませんが、一つのことを学ぶことができると思います。

つまり、裁きの日が来るということです。

ダビデのように、時には神様が忍耐を持って罰の日を延期されることがあります。けれども、もし私たちが悔い改めないならば、裁きは必ずやって来ます。

時には、ヨアブのように私たちは考えることがあります。「神様は私をまだ罰していないから大丈夫だろう。だから、自分が好きにし続けよう。」

しかし、そのような考え方は間違っています。神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが訪れます。結局ヨアブはそれを学びました。

アドニヤとシムイのように、私たちは神様を私たちの王として拒絶することがあるかもしれません。そして、神様の戒めや警告を知っていても、それらを無視し、自分自身の道を歩き続けることがあります。

しかし、アドニヤとシムイのように、神様の忍耐にも限界があります。そして、裁きが訪れるのです。

これは決して楽しいメッセージではありません。だれも神様の裁きについて聞きたいとは思わないでしょう。けれども、それが現実なのです。

だからこそ、私たちが自問すべきは「私は準備できていますか」ということです。

準備をするためには、あなたの心をイエス様にささげなくてはなりません。イエス様が十字架であなたの罪のために死んだことを信じ、イエス様をあなたの主として受け入れなければなりません。

そうすれば、あなたの罪は永遠に赦されます。

あなたはどうでしょうか。イエス様はあなたの王でしょうか。

コメントを残す