ソロモンは賢く、本当に鋭いビジネスマンでした。とはいえ、彼は時として鋭すぎる一面を見せることがありました。
特に、ツロの王ヒラムとの取引では、そのような側面が表れました。ヒラムはソロモンの父ダビデの友人であり、ソロモンとも良好な関係を築いていました。
そのため、ソロモンが宮殿と主の宮を建てた際には、ヒラムは多くの材料を送り助けました。
ソロモンはその材料の対価として20の町を与えましたが、それらの町にはあまり価値がありませんでした。
そのため、ヒラムはその町について不満を言いました。
兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか。(列王記第一9:13)
そして、ヒラムはその町をカブルと名付けました。カブルというのは、価値がないという意味です。
ソロモンは具体的に「価値のある町を挙げる」と約束していなかったかもしれませんが、ヒラムが本当に友人だったら、そのような約束が必要だったでしょうか。
ソロモンに非があったと考えます。
しかし、どれほど私たちが神様に対して同じようなことをするでしょうか。どれほど私たちが、お金や時間や努力をわずかしか捧げないでしょうか。
つまり、どれほど私たちが神様に最高のものを捧げないでしょうか。
もしヒラムがその賜物に不満だったのであれば、王の王がそのような賜物に満足されると思いますか。
神様が私たちの捧げものをご覧になると、「それは価値がない」と言われるでしょうか。
神様は私たちがどれほど捧げるかには関心をお持ちではありません。
ある貧しいやもめが神様に硬貨二つしか捧げませんでしたが、イエス様はお喜びになりました。そして、イエス様は言われました。
わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ21:3-4)
神様が求めておられるのは、私たちの心です。神様は、私たちの心を持っておられるでしょうか。
もしかしたら、私たちは時間やお金や力の残り物を捧げているのかもしれません。
私たちは必要のないものを捧げているのでしょうか。それとも、私たちは最初で最高のものを神様に捧げているのでしょうか。
王の王は私たちの最高のものにふさわしいと思いませんか。
