「気持ち良かったら、するべきです。」
1960年代のアメリカでは、多くの人々がそう言いました。その時代、麻薬や性的な自由が流行しました。
その結果はどうだったでしょうか。壊れた結婚、壊れた家族、壊れた人生が残されました。離婚率が上昇し、エイズや他の性病が蔓延し、道徳観念が低下しました。
けれども、快楽を追い求めることは新しいことではありません。ソロモンの時代にも、人々は快楽を求めていました。だからこそ、ソロモン自身も快楽を追い求めようとしました。そして、ソロモンはこう言いました。
さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。(伝道者の書2:1)
だから、ソロモンは自分のために様々なものを集めました。土地を買い、奴隷を買い、羊や山羊を手に入れ、金や銀を蓄えました。
それだけでなく、彼は自分のハーレムも持っていました。以前言った通り、ソロモンには300人の妻と700人のそばめがいました。
その時代、麻薬は存在しませんでしたが、ソロモンは大量のワインを飲みました。
では、その結果はどうだったでしょうか。ソロモンの結論は何だったのでしょうか。
しかし、これもまた、なんとむなしいことか。
笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。。。
私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2:1,2,11)
私は、快楽が悪いことだと言っているのでしょうか。違います。快楽は良いことです。神様は私たちがこの人生を楽しむことを望んでおられます。
しかし、自分自身を喜ばせることを私たちの目的にしてしまうと、結局のところ、すべてが空しくなります。どうしてでしょうか。それは、私たちが持っているものは決して十分ではないからです。
パウロはこう書きました。
道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。(エペソ4:19)
情欲の問題は、私たちが決して満足することがないという点にあります。私たちは常に、もっと多くを求め、さらに手に入れたいと願ってしまいます。そして、その情欲に屈してしまうと、それを満たすために本当に酷い行動をとってしまうことがあります。
ポルノや麻薬の問題を見れば、そのことがすぐに理解できるでしょう。
ただ一つだけ、私たちを本当に満たすものがあります。それは神様を求めることです。神様を求めるとき、私たちは一時的な喜びを見つけるのではありません。むしろ、永遠の喜びを見つけるのです。
多くの人々は、神様が退屈な存在であり、私たちの喜びを奪うものだと考えています。
けれども、イエス様の人生を見ると、イエス様がまったく退屈な存在ではなかったことが分かります。むしろ、彼に敵対する人々はこう言いました。
あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、「悪い」人の仲間だ。(マタイ11:19)
確かに、それは少し誇張されているように思えるかもしれませんが、イエス様はこの人生を楽しんでおられました。
イエス様は、私たちが良い人生を送り、豊かな人生を持つことを望んでおられます。
一方で、サタンは私たちの喜びを盗もうとします。そのため、一時的に私たちを喜ばせるものを提示しますが、最終的には私たちの人生を空虚なものとし、失望に導きます。
ソロモンも、それを身をもって学びました。
そして、イエス様はこう言われました。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)
