ヤロブアムの話の興味深い点は、その話が短くても、ヤロブアムのレガシーが死の後でも、ずっと続いていることです。
残念なことですが、そのレガシーは全く良くありませんでした。
列王記の中で、何度もこのような言葉を目にします。「彼はヤロブアムの道を歩んだ。」
また、「彼もヤロブアムの罪を犯し続けました。」
とにかく、この箇所では、ヤロブアムの息子が病気になったため、ヤロブアムは預言者アヒヤから神様の言葉を求めました。そのアヒヤは以前、ヤロブアムに「あなたは王になる」と言いました。
私たちはどれほど、そのようなことをしているでしょうか。私たちは神様の言葉を無視しますが、トラブルが来たときに神様を求め始めることがどれほどあるでしょうか。
けれども、ヤロブアムは直接アヒヤのもとへ行きませんでした。その代わりに、自分の妻を送りました。
なぜでしょうか。おそらく彼は自分の罪をわかっていたからです。彼はアヒヤの言葉に逆らい、イスラエルを偶像礼拝に導き、神様に忠実ではありませんでした。
ヤロブアムは妻に言いました。
さあ、変装して、ヤロブアムの妻だと悟られないようにしてシロへ行ってくれ。(列王記第一14:2)
実は、アヒヤは、もう盲人になっていましたが、彼は何も見ることができなくても、ヤロブアムよりも霊的なことを見ていました。
神様がアヒヤにヤロブアムとその妻について注意したので、アヒヤは騙されませんでした。そして、アヒヤはヤロブアムの妻に神様の裁きを宣言しました。
私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。それは、神様は侮られるような方ではないということです。
私たちは神様を騙すことはできません。たとえ変装しても、神様を騙すことはできません。私たちの偽りの敬虔な行動も神様を騙すことはできません。
もしヤロブアムのように私たちが神様に背を向けたら、その罪のために裁かれるのです。
ある日、Facebookで私は次の言葉を目にしました。
「あなたには選択する自由があります。しかし、あなたの選択の結果から逃れることはできません。」
ヤロブアムは神様を信頼するかどうか選択しなければなりませんでした。神様は彼にその自由を与えました。
けれども、ヤロブアムは信頼しないことを選び、その結果を受け入れなければなりませんでした。私たちも同じです。
時々、クリスチャンは言います。「私は罪を犯すけど、すぐに悔い改めるので、大丈夫です。」
もちろん、あなたが本当に悔い改めれば、神様はあなたを赦してくださいます。悔い改めれば、地獄に行くことはありません。とはいえ、この世で犯した罪の結果から逃れることはできないかもしれません。
例えば、不倫をしたら、あなたの結婚や評判、そして健康を失うかもしれません。
どんなに罪のために泣いても、その結果から逃れることはできません。
だから、パウロの言葉を思い出しましょう。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)
