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列王記第二

口先だけの言葉を望まない神

列王記第二1章

イスラエルの王アハズヤの治世は、それほど長くは続きませんでした。およそ2年間だけでした。

父アハブと同様に、アハズヤはバアルを礼拝し、またヤロブアム王が作った金の子牛を通して「ヤハウェ」を礼拝しました。

けれども、アハズヤは本当に神様に従いたいとは思いませんでした。そのため、大きな事故の後、アハズヤは自分が生き延びるかどうかを知るために、異国の神に相談しました。

そのことに対して、神様はエリヤを送りました。そしてエリヤは、アハズヤの使者にこう言いました。

主はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。

それゆえ、あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。(列王記第二1:6)

アハズヤはそのメッセージを聞くと、五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリヤのもとに遣わしました。

なぜアハズヤが彼らを遣わしたのかは分かりません。エリヤを捕らえるために送ったのかもしれませんし、エリヤからさらに話を聞きたかったのかもしれません。

いずれにせよ、二度にわたり、五十人隊の長はエリヤのもとに行き、高慢な態度で話しました。

神の人よ。王がこう申しております。急いで降りて来てください。(11)

おそらく、彼らは「神の人」と言いながらも、エリヤをからかっていただけだったのでしょう。

そのため、エリヤは二度、こう答えました。

もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。(10-12)

けれども、次の五十人隊の長は謙遜な態度を示し、こう言いました。

「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。

ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」(13-14)

そこで、神様はエリヤをもう一度アハズヤのもとに送りました。その直後、アハズヤは命を落としました。

私たちはここから何を学べるでしょうか。神様は私たちの口先だけの言葉を決して望まれません。

アハズヤは他のイスラエルの王たちと同様に、神様を礼拝すると言いながらも、神様が定められたとおりには礼拝しませんでした。

特に彼は、金の子牛を礼拝し、「これが神様だ」と宣言していたのです。

さらに、困難な時にも本当の神様に相談せず、異国の「神」に相談しました。

最初の二人の五十人隊の長はエリヤを「神の人」と呼びましたが、心の中では彼が本当に神の人だとは思っていませんでした。

けれども、最後の五十人隊の長は信仰を持ったため、神様は彼に憐れみを示されました。

私たちはどうでしょうか。神様に口先だけの言葉を捧げるのか、それとも謙遜な心を持って神様に従うのかを問われています。

ある日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

ある人は、感謝の心から喜びとともに告白します。ある人は、苦しい心から涙とともに告白します。しかし、すべての人々はイエス様の権威に従い、口先だけの虚しい言葉は消え去るのです。

だからこそ、今こそ、口先だけの言葉や態度を捨て去りましょう。むしろ、心から神様に仕え、イエス・キリストが主であることを認めましょう。

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