この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼 地だった。
どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。
我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。
それは遠藤周作の小説『沈黙』の中で、棄教した教父クリストヴァン・フェレイラの言葉です。
この物語の中で、フェレイラは他の神父たちに、日本でキリスト教を広める努力が空しいことを説得しようとしました。
現在でも、日本にはクリスチャンがあまりいません。クリスチャンは日本の人口の1%以下です。
長い間、多くのクリスチャン宣教師が日本を訪れましたが、その状況はほとんど変わっていません。
日本は「宣教師の墓地」と呼ばれることがあります。多くの宣教師は希望を持って日本に来たものの、最終的に失望して帰国します。
この箇所を読むと、そのことについて考えさせられます。エリシャがある町に行った時、その人々はこう言いました。
あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。(列王記第二2:19)
「この土地は流産が多い」という表現には、二つの意味が含まれている可能性があります。
一つ目は、妊婦たちが頻繁に流産を経験していたかもしれないということです。
二つ目は、その土地の木々が実をしっかりと結ばず、完熟する前にいつも落ちて死んでしまっていたということです。
多くのクリスチャンは日本について、似たようなことを語ります。
「日本は素晴らしい国です。また、日本人は本当に優しいです。しかし、水が悪く、この土地では実が全然結ばれません。努力して福音の種を蒔いても、何も育たないのです。」
では、エリシャは何と言ったのでしょうか。彼は塩を水の源に投げ込んで、こう言いました。
主はこう仰せられる。「わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。」(列王記第二2:21)
イエス様は、そのようなことを日本に対してもなさりたいのです。
イエス様は、私たちを「地の塩」と呼ばれました。そして、イエス様は日本という沼に私たちを投げ込み、その「水」を癒したいと望んでおられます。
イエス様は、この根が腐った沼を変え、生ける水、すなわち聖霊様をその沼に注ぎたいと望んでおられます。
そうすることで、この沼はもはや死が治める場所ではなくなり、肥沃な土壌となり、福音の種がしっかりと育つのです。
しかし、それが実現するためには、私たち自身が塩となる必要があります。
イエス様はこう言われました。
あなたがたは、地の塩です。
もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)
どうやって、私たちの塩けはなくなってしまうのでしょうか。
この世の人のように振る舞うならば、塩けを失います。つまり、私たちの考え方や行動が、この世の人々と同じになることです。
また、毎日、神様中心の生活ではなく、自己中心の生活を送ることです。
さらに、天にあるものを思わず、地上のものだけを思うようになることも原因です。
このようにして、私たちはさまざまな方法で塩けを失ってしまうのです。
私たち自身に問いかけるべきことは、「私はどれくらい塩けがあるでしょうか」ということです。
もし日本でリバイバルを見たいと願うなら、また日本が福音の種に対して肥沃な土壌となることを望むなら、それは私たちが塩となることから始まるのです。
神様は私たちを日本のための塩として召してくださいました。だからこそ、その役割を果たしていきましょう。
