この箇所を通して、私たちは神様の言葉に背くことの結果を思い出させられます。
ここに書かれているのは、神様の言葉を知らないことの結果ではなく、神様の言葉に背くことについてです。
この箇所で、エリシャはベテルという町に行きました。そのとき、ある男性たちがエリシャのもとに近づいてきました。
少し説明する必要があります。
新改訳聖書には「小さい子供たち」と書かれていますが、そのヘブル語の表現は別の方法でも翻訳できます。つまり、「若い男性たち」と訳すこともできるのです。
列王記第一14-17節において、この同じヘブル語の表現は「若い者」と訳されています。その箇所では、若い者たちが戦争で戦ったと記されています。
したがって、この「小さい子供たち」は、10代あるいは20代の若者たちであった可能性があります。
また、彼らは町から出てきて、エリシャのもとへ向かいました。それは偶然ではありませんでした。彼らは意図的にエリシャのもとへ行ったのです。
そして、彼らはこう言いました。
上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。(列王記第二2:23)
それはどういう意味なのでしょうか。
おそらく、彼らはエリヤが天国に行ったことについて聞いていたのかもしれません。そして、彼らが言ったのは、「もう出て行け!あなたの主人のもとに行きなさい。」という意味だったのでしょう。
ある聖書の学者によれば、彼らはその言葉でエリシャを脅した可能性があります。
それが事実かどうかは分かりませんが、彼らが神様の言葉に背き、神様の預言者を尊敬しなかったことは確かです。
そのため、エリシャは彼らを呪いました。そして神様は熊を送り、その40人の若い者たちを殺しました。
彼らを殺す必要が本当にあったのでしょうか。神様はそう判断されたのです。
思い出してください。エリシャではなく、神様がその熊を送られたのです。
そして、その40人の若者たちがエリシャを脅したとき、エリシャを守るために神様は彼らを滅ぼさざるを得ませんでした。
とはいえ、たとえ彼らがエリシャを脅さなかったとしても、神様はその若者たちとその町の人々に重要なことを教えられました。
それは、もしあなたが神様の言葉に背くなら、また神様に反抗するなら、最終的に裁きが来るということです。
それはすぐに来るかもしれませんし、遅れて来るかもしれません。しかし、確実に裁きが来るのです。
では、私たちはどうでしょうか。私たちは神様の言葉にどのように反応するのでしょうか。
時々、私たちは神様の言葉を聞いて気分が悪くなることがあります。それは、神様が私たちの罪を明らかにされるからです。
また、時には、その言葉を聞きたくないために怒ることもあります。
けれども、私たちはどのように感じても、正しく応答すべきです。
その言葉を無視することはできません。
そして、もしその言葉に背くなら、私たちは裁きを受けることになるのです。
神様は忍耐強いお方です。しかし、神様の忍耐は永遠には続きません。
歴代誌第二36章では、ユダへの裁きについて記されています。それは、ユダがイスラエルのように罪と堕落に陥ったためです。このように記されています。
彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。
それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。
ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:15-16)
あなたはどうでしょうか。神様の言葉を聞いたとき、どのように反応するのでしょうか。
特に、神様があなたの罪を示されたとき、あなたは怒るでしょうか。
それとも、その言葉を無視するでしょうか。
それとも、その言葉に背くでしょうか。
そのようにすると、イスラエル人のように、あなたの心は固くなってしまいます。
そして、長く続けば、最終的に癒されることがない状態に至ります。裁きが来るのです。
しかし、もしあなたが自分の心を柔らかくして、罪を告白し、神様の言葉を受け入れるなら、あなたの人生は変えられます。そして、赦しと癒しが与えられるのです。
あなたはどの道を選ぶのでしょうか。
