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列王記第二

神様からの救い

列王記第二5章

この箇所を読むとき、私は神様からの救いについて考えます。

まず、救いを受けるためには、誰かがその救いの方法を述べ伝えなければならないということです。

この話では、少女が本当に素晴らしいと思います。彼女の名前は記されていません。

それでも、彼女は自分の国から捕えられて奴隷となったにもかかわらず、新しい主人に憐れみを示しました。

そして、彼女は女主人にこう言いました。

もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。(列王記第二5:3)

もし彼女が何も言わなかったら、その主人はきっと亡くなっていたことでしょう。

同じように、私たちの周りには多くの人々が罪の中で死にかけています。もし私たちが何も言わなければ、彼らはその罪の中で死んでしまいます。

だから、パウロはこう記しました。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。

次のように書かれているとおりです。

「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10:14-15)

この話から、神様からの救いについて、もう一つのことを学ぶことができます。それは、救いを得るためには、自分の方法ではなく、神様の方法に従わなければならないということです。

エリシャがナアマンにヨルダン川で身を洗いなさいと言ったとき、ナアマンは怒りました。彼はこう言いました。

 何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。

ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。

これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。(列王記第二5:11-12)

しかし、ナアマンは、自分の方法では癒されないことを認めなければなりませんでした。彼は謙遜になり、自分自身を助けることができないことを認めなければなりませんでした。

また、信仰を持ち、神様の言葉を信じて従わなければなりませんでした。

同じように、もし人々が神様からの救いを望むなら、謙遜な態度と信仰が必要です。

つまり、私たちは罪人であり、自分自身を変えることはできません。そして、罪の赦しのために、イエス様の十字架の働きを信じなければなりません。

最後に、救いは購入できる賜物ではないということです。

そのため、エリシャはナアマンの支払いを拒絶しました。神様はナアマンに、救いが無償の賜物であることを教えようとされました。

ところが、エリシャのしもべゲハジは嘘をつき、自分のためにナアマンから支払いを受け取りました。

そのため、神様は彼を罰されました。彼は、神様の無償の賜物を、対価を払わなければならないものにしてしまったからです。

救いは無償の賜物です。私たちはその賜物を得るために働くことも、支払うこともできません。ただ謙遜な心で受け取ることができるだけです。

エペソ2:8−9には、こう書いてあります。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

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