「もし私が彼を捕らえたら……」
「いつ、どこで、どうなるか分かりませんが、いつかきっと復讐してみせます……」
あなたは、そのようなことを言ったことがありますか。
私たちが傷つくと、そのような思いは珍しくありません。しかし、神様は私たちがそのように生きることを望まれていません。
この話では、アラム人の軍隊がエリシャが泊まっていた都市を包囲しましたが、神様は彼らを打って盲目にされました。
彼らが全く見ることができなかったかどうかは分かりません。そうではないかもしれません。
可能性の一つとしては、彼らの目が見えていたけれど、何を見たのか分からなかったのかもしれません。
例えば、イエス様がよみがえられた後、マグダラのマリアと二人の弟子たちはイエス様を見ましたが、すぐにはイエス様だと分かりませんでした。
もしその軍隊が全く見ることができなかったのであれば、サマリヤまで歩くのは非常に困難だったことでしょう。
とにかく、結局イスラエルの王ヨラムはエリシャの助けによって、その軍隊を捕らえました。そして、ヨラムはエリシャに尋ねました。
私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。(列王記第二6:21)
多分、ヨラム王はこのように考えました。「これはチャンスです。敵を打てば大きい勝利になります。」
また、「私たちは何もしていないのに、彼らは私たちを攻撃しました。彼らは死に値するのではないでしょうか。」と考えたのかもしれません。
しかし、エリシャはこう答えました。
打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。
彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。(22)
ヨラム王はエリシャの言葉に従いましたので、アラム人は恥ずかしくなり、しばらくイスラエルを攻撃するのを止めました。
人々があなたを傷つける場合、あなたはどのように反応されるでしょうか。
神様は私たちがこの世の人々が反応するように望まれていません。むしろ、私たちがイエス様の模範に従うことを望まれます。
イエス様は、からかわれ、打たれ、十字架につけられながらも、敵を赦されました。
さらに、彼らの罪のために死んでくださいました。
つまり、イエス様は彼らの悪に善をもって報いられたのです。
パウロの言葉を思い出しましょう。
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:17-21)
