イスラエル人はアラム人にあわれみを与えたので、しばらく平和が続きました。
ところが、結局、アラムの王は再び全軍を召集して、サマリヤを包囲しました。
その結果、イスラエル人は食べ物がなく、生き残るために酷いことをしてしまいました。
ある女性がイスラエルの王ヨラムの前に行き、言いました。
この女が私に[あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう]と言ったのです。
それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に「さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう」と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。(列王記第二6:28-29)
ヨラムはどのように反応したでしょうか。彼は神様と預言者エリシャを責めました。
きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。(列王記第二6:31)
そして、エリシャを殺すために、ヨラムはエリシャを探していた。見つけると、ヨラムは言った。
見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。(列王記第二6:33)
つまり、「私は忍耐がもうなく、信仰も失っています。この悪い状態の中で、なぜ私は神様に信頼し続けなければならないのでしょうか。」
では、その前に、ヨラムは何をしていたのでしょうか。エリシャのアドバイスを求めていたのでしょうか。主の御言葉を求めていたのでしょうか。
多分、そうしなかったのでしょう。
むしろ、自分の知恵と力によってその問題を解決しようとしました。
そして、解決できないと分かっても、なお神様を求めてはいませんでした。むしろ、ヨラムは自分自身の悪い決断のために神様を責めました。(列王記第二3章でも、ヨラムは同じようなことをしていました。)
とにかく、エリシャはヨラムに神様からの救いを予言しました。ヨラムはエリシャを信じたようですが、ヨラムの侍従は信仰を失い、その疑いを口にしました。
そこで、エリシャは言いました。「あなたは神様からの救いを見るが、それを楽しむことはありません。」(列王記第二7:2)
神様はイスラエル人を救い出されました。包囲が終わり、イスラエル人は食べ物を集めるために門から暴れて出ました。
その侍従は門の管理をしていましたが、イスラエル人が彼を踏みつけたため、彼は死んでしまいました。
私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
大変な時に、私たちの信仰はどれほどあるでしょうか。諦めるでしょうか。解決を探すことを諦めるだけでなく、私たちの信仰も諦めるのでしょうか。
それとも、神様に信頼し続けるのでしょうか。
すべてがうまくいく時に、神様に信頼するのは簡単です。
しかし、うまくいかなくても、あなたは信頼し続けるのでしょうか。
