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列王記第二 歴代誌第二

聖書は矛盾があるでしょうか

列王記第二8ー9章;歴代誌第二22章

聖書を信じることができるでしょうか。時には、ミスがないのだろうかと疑問を抱くことがあります。

多くの人々がそのような疑いを持っています。そして、今日の箇所を読むと、多くの人々がそう考えるかもしれません。

列王記と歴代誌を合わせて読むことは非常に興味深いです。

なぜなら、時には両書に同じ話が記録されているものの、列王記には歴代誌に書かれていない情報があり、また歴代誌には列王記に書かれていない情報があるからです。

そのため、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、その話の全体像を知ることができます。

とはいえ、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、少し分かりにくい点が出てくることもあります。つまり、列王記と歴代誌の記録には、若干矛盾があるように見える場合もあるのです。

その一例が、ユダの王アハズヤの死に関する記述です。

アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

このブログでは、できる限り難しい箇所から逃げずに向き合いました。

けれども、この話について私の意見を述べる前に、このような難しい箇所について私がどのように考えるかを説明したいと思います。

二人の人が同じ出来事について語る場合、彼らがまったく同じ言葉を使うことはありません。

なぜなら、彼らの記憶は異なり、また何を重要と見るかについても意見が違うため、同じ出来事を語っていても焦点を当てる点が異なるからです。

裁判において、複数の証人が同じ出来事について語ると、異なる証言が現れるものです。

しかし、話が少し異なっていても、その事件が実際に起こらなかったわけではありません。また、それが矛盾しているわけでもありません。

裁判官はそれらの証言を聞き、どのようにして異なる点を統合するかを考えます。

私たちが聖書を読むときも、同じことをするのです。

もし列王記と歴代誌の間に異なる記述があった場合、それらをどのように統合すればよいか考えます。

また、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の間で矛盾があるように見える場合も、同じことを行います。

その結果、常に良い説明が存在すると信じています。

とにかく、アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

列王記によると、アハズヤは傷を負い、ミギドという都市に逃げました。そして、彼はそこで死に、彼の家来たちは彼をエルサレムに葬りました。(列王記第二9:27-28)

列王記だけを読むと、アハズヤが傷によって死んだのだと思うかもしれません。

けれども、歴代誌によると、アハズヤは捕まり、サマリヤでエフーによって殺されました。

では、この二つの話をどのように統合することができるでしょうか。

ここで、この話をもう少し詳しく見てみましょう。

列王記によると、アハズヤはイスラエルの王ヨラムを見舞いに訪れました。

エフーが現れ、ヨラムを殺した後、アハズヤを見て追いかけ、殺そうとしました。アハズヤは傷を負ったものの、メギドに逃げました。

一方、歴代誌にはさらに多くの情報が書かれています。

エフーがアハズヤを探し続けていたところ、エフーの民がサマリヤでアハズヤを見つけました。

では、なぜアハズヤはサマリヤにいたのでしょうか。

ある可能性として、アハズヤが傷を負ったとき、最初にミギドに逃げたと考えられます。

エフーはその知らせを聞いてミギドに向かいましたが、アハズヤがエフーの接近を知ると、サマリヤへ逃げたのかもしれません。

エフーがミギドに到着したときには、アハズヤはすでに逃げてしまっていたため、エフーはアハズヤを探すために人々を送り出しました。

その後、彼らがアハズヤを見つけ、彼をミギドに連れ戻し、そこでエフーが彼を殺したと考えられます。

歴代誌によると、アハズヤがサマリヤで見つかったと記されていますが、サマリヤで殺されたとは書かれていません。

むしろ、「人々は彼をエフーのもとに引いてきて殺した」と記されています。

とはいえ、その時点でエフーがどこにいたのかは明記されていません。

一方、列王記には、アハズヤが傷を負った後にミギドで死んだと記されていますが、どのようにして死んだのかについての詳細は書かれていません。

ただ「ミギドで死んだ」とだけ記されています。

そして、エフーが彼を埋葬した後、アハズヤの家来たちがその遺体をエルサレムに運び、葬ったのだと考えられます。

この説明は正しいのでしょうか。私は分かりません。

他の説明が存在する可能性もあります。けれども、私が確信しているのは、聖書には矛盾がないということです。

聖書の中には時折、難しい箇所があります。

列王記と歴代誌の中にも、福音書の中にも、統合が難しい箇所があります。

しかし、それらの箇所を詳しく調べたり、深く考えたりすると、聖書に矛盾がないことが分かるのです。

ですから、私たちは聖書を信じ、従いましょう。

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