「神様は愛です。」
多くの人はその言葉を好みます。それは慰めを与える言葉だからです。しかし、神様には憎まれることがあります。この箇所では、そのことについて神様ご自身が語っておられます。
イザヤはこう記しました。
ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。(イザヤ書5:8)
つまり、ある人々が貪欲によって、特に正当な目的もなく物を集め過ぎたために、他の人々は貧しくなってしまいました。しかし、神様はそのような態度を憎まれます。
あなたはどうですか。要らない物を集めすぎて他の人々のニーズを気にしないでしょうか。
そして、イザヤはこう記しました。
ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。。。
ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。(11,22)
時々お酒を飲むことは罪ではありませんが、神様は酔っぱらうことを裁かれます。お酒があなたをコントロールすることは良くないのです。
私たちは神様の宮です。お酒ではなく聖霊が私たちをコントロールする方が良いです。(エペソ5:18)
神様の宮で酔っぱらうことは不適切です。
ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。(18)
この箇所では、イザヤは罪の道を歩む人々を責めています。どこに行っても、彼らは自分の罪を持っていきます。
私たち皆は罪を犯します。私たち皆は失敗します。けれども、私たちの罪が私たちを定義するべきではありません。
むしろ、人々は私たちの正義を見るはずです。神様は聖であられるから、私たちも聖でなければならないのです。(第一ペテロ1:16)
彼らは言う。「彼「神様」のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と。(19)
一見すると、この人々は神様を求めているようです。けれども、実は、この人々は全然本気ではありませんでした。
彼らの言葉はこうでした。「神様、もしあなたが本当に存在しておられるなら、ご自身を現してください。そうすれば、信じます。」
けれども、彼らは神様の言葉を無視し、神様が彼らの人生にしておられることにも目を向けませんでした。それでも、神様は侮られるような方ではありません。本気で神様を求めなければ、神様はご自身を現されないのです。
ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。(20-21)
私たちの時代においても、イザヤのメッセージは適切なものです。多くの人々は神様の戒めを捨てて、自分の善悪の標準を作ります。
彼らは、神様が善とされることを悪と言い、神様が悪とされることを善と言います。しかし、神様はそのような「知恵」を憎まれます。
彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。(23)
神様の知恵と義を捨てると、不正がきっと起こります。今でも、イザヤが見たことを私たちは見ることができます。賄賂のために悪者が正しいと宣言され、義人から義が取り去られています。
イザヤの時代から、私たちの時代はあまり変わっていません。変わらないことが確か一つあります。それは、神様が憎まれる行動です。
神様がイスラエルをその行動のために裁かれたように、その行動を犯す人々を裁かれます。神様は愛ですが、罪の道を歩む人をきっと裁かれます。
だからこそ、パウロが語ったように、私たちは神様が憎まれる行動を捨て、善に親しむ者となりましょう。(ローマ12:9)
