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イザヤ書

神様が憎まれる行動

イザヤ書5:8-30

「神様は愛です。」

多くの人はその言葉を好みます。それは慰めを与える言葉だからです。しかし、神様には憎まれることがあります。この箇所では、そのことについて神様ご自身が語っておられます。

イザヤはこう記しました。

ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。(イザヤ書5:8)

つまり、ある人々が貪欲によって、特に正当な目的もなく物を集め過ぎたために、他の人々は貧しくなってしまいました。しかし、神様はそのような態度を憎まれます。

あなたはどうですか。要らない物を集めすぎて他の人々のニーズを気にしないでしょうか。

そして、イザヤはこう記しました。

ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。。。

ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。(11,22)

時々お酒を飲むことは罪ではありませんが、神様は酔っぱらうことを裁かれます。お酒があなたをコントロールすることは良くないのです。

私たちは神様の宮です。お酒ではなく聖霊が私たちをコントロールする方が良いです。(エペソ5:18)

神様の宮で酔っぱらうことは不適切です。

ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。(18)

この箇所では、イザヤは罪の道を歩む人々を責めています。どこに行っても、彼らは自分の罪を持っていきます。

私たち皆は罪を犯します。私たち皆は失敗します。けれども、私たちの罪が私たちを定義するべきではありません。

むしろ、人々は私たちの正義を見るはずです。神様は聖であられるから、私たちも聖でなければならないのです。(第一ペテロ1:16)

彼らは言う。「彼「神様」のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と。(19)

一見すると、この人々は神様を求めているようです。けれども、実は、この人々は全然本気ではありませんでした。

彼らの言葉はこうでした。「神様、もしあなたが本当に存在しておられるなら、ご自身を現してください。そうすれば、信じます。」

けれども、彼らは神様の言葉を無視し、神様が彼らの人生にしておられることにも目を向けませんでした。それでも、神様は侮られるような方ではありません。本気で神様を求めなければ、神様はご自身を現されないのです。

ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。(20-21)

私たちの時代においても、イザヤのメッセージは適切なものです。多くの人々は神様の戒めを捨てて、自分の善悪の標準を作ります。

彼らは、神様が善とされることを悪と言い、神様が悪とされることを善と言います。しかし、神様はそのような「知恵」を憎まれます。

彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。(23)

神様の知恵と義を捨てると、不正がきっと起こります。今でも、イザヤが見たことを私たちは見ることができます。賄賂のために悪者が正しいと宣言され、義人から義が取り去られています。

イザヤの時代から、私たちの時代はあまり変わっていません。変わらないことが確か一つあります。それは、神様が憎まれる行動です。

神様がイスラエルをその行動のために裁かれたように、その行動を犯す人々を裁かれます。神様は愛ですが、罪の道を歩む人をきっと裁かれます。

だからこそ、パウロが語ったように、私たちは神様が憎まれる行動を捨て、善に親しむ者となりましょう。(ローマ12:9)

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