この箇所は北イスラエル王国の物語の跋文です。
イスラエル人がアッシリヤに追放された後、アッシリヤの王は征服した他の国々の民をイスラエル人の代わりにサマリヤの町々に住まわせました。(サマリヤは北イスラエル王国の首都でした。)
ところが、間もなく、その人々はライオンによって殺されました。そして、アッシリヤの王はこの報告を聞きました。
あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。
それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。(列王記第二17:26)
この箇所を初めて読んだとき、「本当に主がそのライオンを送られたのだろうか」と思いました。
列王記の著者はそう考えていたのでしょうが、この話を読むと、その考えを受け入れるのは難しいと感じました。
なぜなら、アッシリヤの王が捕らえ移したイスラエルの祭司の一人をイスラエルに送り返し、その祭司がその人々にどのように主を礼拝するかを教えたからです。
そして、それ以降、ライオンが人々を襲うことはなくなったようです。
もちろん、神様は時々人々を裁かれます。また、旧約聖書の時代には、神様が動物を通して人々を裁かれた例も時々ありました。
とはいえ、問題は、サマリヤに送り返された祭司たちが堕落した祭司だったという点です。彼らは本当の祭司ではありませんでした。
ヤロブアム王一世が王位に就いたとき、本物の祭司たちは皆ユダ王国に移ったため、ヤロブアムは自分の意にかなう祭司を任命したのです。
そして、彼らは真の神様の礼拝を教えませんでした。むしろ、金の子牛がイスラエルの神であると教えたのです。
だから、もし神様がそのライオンを送られたのだとしたら、なぜ堕落した礼拝のためにライオンを送るのを止められたのでしょうか。
けれども、さらに考えてみると、一つの可能性として考えられるのは、神様が彼らを罰したものの、彼らの無知によって神様はご自身の怒りを収められたのではないかということです。
イエス様は次のように言われました。
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)
とにかく、その人々は神様について教えられたにもかかわらず、彼らは自分の神々を礼拝し続けました。
だから、私たちはこの矛盾した状況について読むことになります。
彼らは主を礼拝し[た]。(列王記第二17:32)
そして、
彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。(列王記第二17:34)
どのようにしてこの二つの文が同時に正しいと言えるのでしょうか?
この箇所によって、神様はこう言っておられるのだと思います。「二人の主人を礼拝することは、真の礼拝ではありません。」
十戒の最初の命令で、神様は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と仰いました。
したがって、列王記の著者は、この命令によってその人々を非難したのです。(列王記第二17:34-40)
では、あなた自身はどうでしょうか。主だけに仕えているでしょうか。それとも、二人の主人に仕えようとしているでしょうか。
ある人々にとって、お金が彼らの主人となっています。そのために、イエス様はパリサイ人を非難されました。
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16:13)
ある人にとっては、自分の持ち物が彼らの主人となっています。また、ある人にとっては、趣味が彼らの主人となっています。
あなたにとって一番大事なもの――それこそが、あなたの神です。
もし神様よりも他のものを優先して仕えるなら、神様はあなたの礼拝を受け入れられません。
そのような礼拝はサマリヤ人の礼拝と同じであり、神様の目には無意味なものになってしまいます。
あなたの主人は誰でしょうか。
