聖書が私たちによく警告することはプライドです。そして、この箇所で、神様はアッシリヤ人をプライドのために責められました。
アッシリヤは強い国になって、周りの国々を征服し始めました。しかし、彼らが知らなかったことは、神様が彼らを通してその国々を裁いておられたことです。つまり、アッシリヤ人たちはただ神様の道具にすぎませんでした。
神様はこう言われました。
わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。(イザヤ書10:6)
けれども、自分のプライドによって、アッシリヤ人たちは自慢しました。
私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。
私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。(13)
だから神様は答えられました。
斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。(15a)
そして、神様は皮肉っぽく言われました。
それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。(15b)
だから、神様は彼らを裁いてこう宣言されました。
それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。(16)
ヒゼキヤ王の治世のとき、その預言は成就されました。(イザヤ37:36ー37)
ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
私たちはよく自分ができること、また自分ができたことを自慢します。社会でも、教会でも私たちはそうします。
しかし、覚えていなくてはならないことは、私たちが主人ではないことです。私たちはただの道具です。
私たちが持っている物の全ては神様から来ます。そうであれば、私たちは何を自慢できるでしょうか。
パウロはこう言いました。
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。
あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。
もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)
だから、教会でも、この世界でも、私たちが素晴らしいことをする時、すべてがどこから来るか思い出しましょう。
私たちの賜物と才能がどこから来るか思い出しましょう。私たちの祝福がどこから来るか思い出しましょう。
そして自分自身のために生きずに、謙遜な態度を持って、神様に感謝して仕えましょう。
