時々私たちはこの世の悪を見て、「神様はどこにおられるのだろうか」と思います。
「どうして神様は何もされないのだろうか。何かしておられるのだろうか。神様は悪を見て、気になさらないのだろうか。」
この箇所で、神様はそのような方のようです。「あちこちで恐れられている民」また「力の強い、踏みにじる国」を見ると、神様は言われました。
「静まって、わたしの所からながめよう。」(イザヤ書18:4)
しかし、神様はいつまでもそうされません。むしろ、ある日、
「神様」はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。
それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。(5-6)
日本語の翻訳では、「人はその枝をかまで切り。。。」と書いてありますけど、ヘブル語では「彼はその枝をかまで切り。。。」と書いてあります。その「彼」とは神様です。
つまり、今神様が何もしておられないと思うかもしれませんが、結局神様がこの世界を裁かれます。その悪い民を裁かれ、神様とその民に反対する人々を裁かれます。
とはいえ、興味深いところもあります。神様はその敵が悔い改めるように働いておられます。
7節によると、神様とその民に反対して恐れられた人々は、神様を王として従い、贈り物をささげます。
だから、ペテロの言葉を思い出すことが大切だと思います。ペテロはこう書きました。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。
かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3:9-10)
神様の御心はすべての人々が滅びることではなく、むしろ救われることです。ある日、悔い改めない人々は裁かれます。
しかし、神様は彼らの悔い改めのために待っておられ、その日を伸ばしておられます。
神様の民として、私たちはどのように反応するべきでしょうか。
周りの人々の救いのために祈りましょう。彼らが私たちを憎んでも、彼らが私たちが見つけたキリストにあって命を見つけるように祈りましょう。
神様の子供としてそうするべきではないでしょうか。
