この箇所では、イスラエルの民は神様の裁判所に立たされていました。そして、神様は彼らを被告として召喚し、問い詰められました。
わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。(ミカ書6:3)
そして、神様はご自身の証言をされました。「私はあなたたちをエジプトから救い出しました。また、私はあなたたちを荒野で守り、私が約束した土地に導きました。」(4-5)
ところが、イスラエルの民はその言葉を聞いて苛立ちました。
彼らは答えました。
「しつこいですね。それでは、私たちに何を望んでおられるのですか。子牛や雄羊のいけにえですか。それとも、私たちの子供をいけにえとして捧げることでしょうか。一体何を求めておられるのですか。」
現代でも、多くの人々は同じような態度で神様に向き合います。彼らは、神様が宗教的な儀式を求めておられると誤解しています。例えば、神様が彼らに教会に行くことや献金を捧げることを望んでいると考えています。
多くの人々はイースターの六週間前からタバコや砂糖、肉を控えます。(これを四旬節と言います。)
けれども、その年の残りの期間は、まったく神様のことを考えず、自分自身のために生きるのです。
イスラエルの民も同じでした。彼らは神様の怒りを収めるためにいけにえを捧げることには同意しましたが、その後は自分自身のために生き続けたいと考えていました。
しかし、ミカはこう答えました。
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(8)
神様は空しい宗教に興味を持っておられません。空しい宗教とは、神様を愛さずに宗教的な行為だけを行うことです。つまり、ある日は宗教的なことを行うけれど、その残りの日々は自分自身のために生きることです。
イスラエルの民の場合、彼らは日々の商売でお客さんを騙し、暴力や不正に満ちた生活をしていました。
それゆえ、神様は怒られました。イスラエルの民は宗教的な儀式を行ったにもかかわらず、神様が本当に望んでおられることは全く行いませんでした。すなわち、正しいことを行い、誠実を愛し、へり下って神様と共に歩むことです。
神様はそれを日々求めておられたのです。一週間に一度だけそのような態度を取ることを望んでおられたのではありません。
あなたはどうでしょうか。神様を喜ばせることは何だと思いますか。
それはお金だけではありません。それは教会に行くことだけではありません。それは宗教的な儀式を行うことだけでもありません。
イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、犠牲や献金、儀式については全く言及されませんでした。
むしろ、イエス様はこう言われました。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ12:30-31)
あなたは神様を喜ばせたいと願っていますか。
空しい宗教的な行動だけでは、神様を喜ばせることはできません。
もし神様を喜ばせたいと願うなら、毎日神様を愛し、周りの人々を愛するべきです。
それが神様の望まれることなのです。
