「神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」
時々、私たちは自分の状況を見て、そう思います。特に、苦しい時に私たちは神様の愛を疑います。
また、私たちは自分の人生をめちゃくちゃにして、「神様は私をもう諦めてしまわれたのだろうか」と思います。
イスラエルはそう思ったかもしれません。けれども、神様は彼らにこう言われました。
その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。
わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。
わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。
時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。(イザヤ書27:2-6)
この箇所では、神様はイスラエルを神様が世話するぶどう畑と比べられました。その言葉はイスラエルのためですが、神様は私たちクリスチャンたちにも話されます。
「私はあなたを見守ります。」
私の目はいつもあなたに留まっています。あなたの人生に何が起こっているかよく知っています。私が気づかないことはありません。全ての微笑み、すべての涙を見守ります。
「あなたに水を注ぎます。」
あなたが枯れている時に、私はあなたを潤します。のどが乾いたら、あなたの渇きを癒します。
「私はあなたを守ります。」
あなたの敵が来ると、私はあなたの盾になります。あなたが恐れたら、私はあなたの砦となります。
「私はあなたのために戦います。」
敵の力によってあなたが圧倒されると、私はあなたのために戦い、あなたは勝利を得ます。
「私の力によって、あなたは実を結びます。」
あなたの人生は咲いて、あなたの人生によって、この世界は祝福されます。
あなたは神様の言葉を聞くと、こう尋ねるかもしれません。「でも、私が罪を犯すと?神様は私を拒絶されるでしょうか。」
それでも、神様はあなたを捨てられません。
イザヤはこう記しました。
主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。
あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。(7-8)
あなたが罪を犯して、神様に背くと、神様はあなたを懲らしめられます。
しかし、神様はイスラエル人を捨てられませんでしたし、あなたをも捨てられません。あなたが悔い改めると、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。
神様はイスラエルにこう言われました。
その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。
イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。
その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(12-13)
私たちに対する神様の怒りはいつまでも続きません。イエス様にあなたの救いのために信頼すると、私たちの罪のために滅びることはありません。(ヨハネ3:16)
神様は私たちが神様に戻ることを待っておられます。私たちが悔い改めたら、神様は私たちを癒して、もう一度実を結ぶぶどう畑にしてくださいます。
ダビデが書いたように、
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩編30:5)
