「神様は物理学を理解できるだろうか。生物学はどうだろうか。テクノロジーはどうだろうか。神様は本当にそんなことを理解できるだろうか。」
多くの人々はそのように考えます。
イザヤの時代でも、人々は神様の知恵を疑いました。そのため、彼らは何度も神様に信頼しませんでした。
この箇所では、神様はイスラエル人に、彼らの農業の知識がどこから来たのかを尋ねます。
これまで私は考えていませんでしたが、神様がアダムとエバを造り、エデンに置いたとき、多分神様は彼らに基本的な農業技術を教えたのかもしれません。
そして、時間が経つにつれて、神様はアダムとエバの子孫に、さらに高度な技術を授けられました。
直接教えなくても、神様が彼らに知恵を与えてくださったので、最終的に彼らは自分たちでその技術を学び取ることができました。
こうして、神様はご自身の問いに答えておられるのです。
農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。(26)
また、
これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。(イザヤ書28:29)
神様のポイントは何でしょうか?
私たちの知識は、もともと神様から来たものです。
世紀にもわたって、私たちはさまざまなことを学んできましたが、神様は最初から全てを知っておられました。私たちが学んだことの中で、神様が知らないことは一つもありません。
神様は、科学、政治学、経済学、心理学、人間関係など、全てを理解されています。私たちが良い人生を送るために何が必要なのか、神様はよくご存じです。
それなのに、なぜ私たちは神様に信頼しないのでしょうか。
多くの場合、私たちは神様の御言葉を読んで、こう言います。
「神様、あなたは分かっておられない。私たちの社会が分かっておられない。私の必要が分かっておられない。もし分かっているなら、あなたの御言葉にこんなことが書いてあるはずがない。」
でも、私たちがそのように考えると、私たちの心は神様を小さくします。
神様は偶然に私たちを造られたのではありません。神様は指を鳴らして、急に全てを造り、そのあとで、「どうやって全てを造ったのだろうか」と悩むような方ではありません。
神様は全てをご存じです。全てを理解されています。神様にあって、私たちが必要とする知恵が備えられています。
だから、神様をあなたの心の中で小さくしないでください。神様をありのままに認めましょう。
パウロが言ったように、
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)
