それでは、新約聖書を始めましょう。
もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。
「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。
けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。
聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。
そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。
同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。
旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。
しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。
だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊
イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。
荒野に呼ばわる者の声がする。
「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)
イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。
この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。
では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。
一つ目は、
すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)
つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。
だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。
私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。
二つ目は、このことを思い出しましょう。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)
つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。
私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。
しかし、神様は決して変わることがありません。
もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。
あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。
イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」
イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。
