旧約聖書の時代、主の宮での礼拝は非常に排他的でした。そのことは、モーセ五書(創世記から申命記まで)に詳しく記されています。
例えば、祭司だけが宮の聖所に入ることができ、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていました。しかも、大祭司が至聖所に入るのは、年に一度だけでした。
さらに、他にも厳しいルールがありました。たとえば、もし祭司たちが睾丸を損傷していたり、身体に欠陥があれば、聖所や至聖所に入ることはできませんでした(レビ記21:16-24)。
また、旧約聖書と新約聖書の時代には、宮の中で女性や外国人が立ち入ることのできない区画も存在しました。
しかし、この箇所では、神様が「ある日、そのような差別は終わる」と約束されています。神様はこう宣言されました。
主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。
宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。
彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ書56:3-7)
つまり、どんな人であっても、神様を求めるならば、神様はその人を受け入れてくださいます。
神様の目には、誰も二流市民などではありません。ユダヤ人でも、アメリカ人でも、日本人でも、神様はあなたを愛する子として迎え入れてくださいます。
パウロはこう書きました。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:26-28)
神様の国で、あなたが二流市民だと感じることがあるでしょうか。
心に留めておきましょう。たとえあなたが誰であっても、過去に何をしていたとしても、神様の目には二流市民など存在しません。
人種や性別、またはこれまでの履歴に関係なく、神様はあなたに恵みを注いでくださいます。ですから、その真理の中で安心しましょう。
