神様は虚しい宗教に全く感動されません。ミカ書6章では、神様がそのことについて語られています。そして、この箇所でも、同じテーマが語られています。
この箇所では、イスラエルの民が神様に対して文句を言いました。
なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。(イザヤ58:3)
外見だけを見ると、それが正当な文句のように思えるかもしれません。なぜなら、
彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。(2)
けれども、神様は私たちの断食や祈り、宗教的な行動だけをご覧になっているわけではありません。神様は私たちの人生のすべてを見ておられます。
それゆえ、神様はイスラエルの民にこう言われました。
見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。
あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。
わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(3-7)
つまり、「あなたが祈り、断食をするとき、霊的な人々のように見えるかもしれません。しかし、それ以外のときに自分自身のためだけに生きているなら、あなたの断食と祈りは無意味です。
あなたの周りには多くの人々が悩んでいるのに、あなたが彼らを無視しているなら、そのような生き方では、私にとってあなたの断食と祈りは意味をなしません。」
一方で、あなたが周りの人々に手を差し伸べるならば、
。。。暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。。。
あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(8-11)
多くの人々は「日曜日クリスチャン」です。つまり、彼らは日曜日には教会に行くけれど、それ以外の日には自分自身のために生きています。
イスラエルの民も、安息日に神様を礼拝していたかもしれませんが、他の日には自分自身のために生きていました。実際、多くの場合、安息日ですら彼らは自分のために生きていたのです。
そのため、神様は彼らにこう言われました。
もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。(13-14)
ですから、日曜日には自分自身のために生きるのではなく、その日を神様を敬うために過ごしましょう。
あなたはどうでしょうか。あなたの信仰は虚しいものでしょうか。それとも、神様と他の人々への愛が、あなたの心に豊かに満ちているでしょうか。
神様は、私たちの宗教的な形式や習慣を望んでおられるわけではありません。神様が望んでおられるのは、私たちの愛です。そして、私たちが周りの人々を愛し、彼らに仕えることを望んでおられます。
あなたはどのような信仰を持っていますか。
