時々、人々はこう尋ねます。「神様はどこにおられるのでしょうか。私には神様が見えません。この世にある悪しか目に入りません。」
神様は確かにここにおられます。けれども、私たちの心の中に罪があるため、神様を見るのが難しいことがあります。イザヤはこう語りました。
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1-2)
神様を見たいと思いますか。あなたが悔い改めるなら、神様はあなたの罪を赦し、あなたの心を清めてくださいます。そして、その結果、神様を見ることができるようになります。
イエス様はこう言われました。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5:8)
神様は聖なる方であり、罪を見ることができません。そのため、私たちの心の中に悔い改めていない罪があるならば、私たちは神様から遠ざかってしまいます。
しかし、自分の罪に取り組むのではなく、多くの人々は言い訳をしてしまいます。イザヤは次のように語りました。
むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(4)
また、
彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。
彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。
彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。
私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(7-10)
この世界を見渡すと、私たちはそのような現実にどれほど頻繁に直面していることでしょうか。人々は罪を善と呼び、神様が定めた罪を良いこととして受け入れ、それを喜びます。
けれども、結局のところ、私たちは暗闇に迷い込んで、「どうしてこの世はこんなに混乱してしまったのだろうか」と問いかけます。
その理由は明白なのに、私たちにはその理由が見えていません。それは、私たちが良い神を拒絶し、罪を愛しているからです。その結果、この世はますます悪くなり、崩れていっています。
それでも、私たちが罪人であっても、神様は私たちを見捨てることはありませんでした。
主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。
そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり「ました。」(15-17)
約2000年前、イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。そのため、もし私たちが悔い改め、イエス様に立ち返るならば、私たちは赦され、自由にされるのです。それは、まさに良い知らせです。
しかし、悪い知らせもあります。それは、もし私たちが神様に向かわないならば、神様の裁きを受けるということです。
主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし「ます」(18)
だから、どうか待たないでください。今日は救いの日です。今、この瞬間に神様に向かいましょう。
