福音は両刃の剣です。福音は始めからそのようなものでした。
イエス様を受け入れるなら、福音は救いの方法となります。しかし、イエス様を拒絶するなら、それは裁きに導きます。この箇所では、救いと裁きの両方を見ることができます。
まず最初に、キリストが国々を裁く姿が描かれています。イエス様の着物は、神様に背く人々の血で赤く染められています。彼はこう言われます。
わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(イザヤ書63:3-4)
また、
わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。(6)
私たちがイエス様について考える時、だれもその絵を想像したくありません。けれども、パウロはこう言いました。
罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)
とはいえ、この同じ神は、救いの神でもあります。
イザヤは問いかけます。
エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。(イザヤ書63:1)
神様は答えられます。
正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。。。
わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。
そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。(イザヤ書63:1,4-5)
その言葉は、パウロの言葉に似ています。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:6-8)
誰も私たちを救えない時、また私たちが自分自身を救えない時、神様は人間としてこの世に来て、私たちの罪のために死なれました。
神様は私たちが良い人になるまで待っておられませんでした。なぜなら、私たちは自分自身を変えることができなかったからです。
だからこそ、私たちがまだ弱く罪人であった時、イエス様は私たちのために死んでくださいました。
今、私たちがするべきことはただ一つしかありません。それは、神様からの救いの賜物を受け取ることです。それこそが福音です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6:23)
救いか裁き。私たち皆は選ばなければなりません。
あなたはどちらを選びますか?
