この世界を造られた神が私を愛しておられることは、本当に不思議だと思います。言葉だけですべてを造られた神が私について考えておられることも、不思議だと思います。
この箇所では、そのような神を見ることができます。
イザヤはイスラエル人について話し、神様がどのように彼らを選ばれたかを教えています。イスラエルのエジプトでの経験について、イザヤはこう言いました。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:9)
イザヤはイスラエル人について話しますが、私たちについても話しています。
私たちが苦しむ時、神様も苦しんでおられます。私たちが泣く時、神様も泣いておられます。
だから、私たちが罪に迷った時、神様はイエス様の死によって、私たちを贖い、救ってくださいました。そして、神様は私たちを背負い、抱いて来られました。今でも神様はそうしてくださいます。
それに、神様は力ある神です。イザヤはこう言いました。
私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。
神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。
ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。(64:3-5)
神様は問題を解決する力を持っておられます。私たちを助ける力を持っておられます。
エジプトが大国だったのに、神様はイスラエル人をエジプトから救い出されました。神様のしるしと不思議を通して、イスラエルの敵は恐れました。
その同じ神が、私たちの人生の中でも働いておられます。神様に仕え、また神様を待ち望む私たちの中で、神様は働いておられます。
神様は情け深い神です。神様は力ある神です。
しかし、一つのものによって私たちは神様から離れます。そのものは、神様の祝福と助けを妨げます。それは、罪です。
神様がイスラエル人を救って祝福されたのに、彼らは神様に背き、御霊を悲しませました。だから、神様はイスラエル人をその敵の手に渡されました。
そのように、私たちの罪によって、私たちは神様から離れてしまいます。イザヤはこう言いました。
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。(イザヤ書64:6-7)
私たちが神様を求めないなら、私たちの義でさえ不潔な着物のようになってしまいます。イザヤの文字通りの言葉によれば、私たちの義は不潔な月経布のようだと言っています。
そして、私たちは罪の結果を知っています。自分自身を罪に捧げるなら、結局滅びに至るのです。
赦しへの道は何でしょうか。それは、悔い改めです。罪に背を向け、神様の赦しに頼ることです。私たちの創造者を思い出し、神様を求めることです。そして、イザヤのように祈ることです。
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。(イザヤ書64:8-9)
そうすれば、もう一度、神様の情けと力を知ることができます。
