私が若い頃、クリスチャンの本でこの言葉を読みました。「あなたがクリスチャンになると、神様はあなたの家族を救うと約束されます。」
そして、その著者は使徒の働き16:31から引用していました。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
だから、その著者は私たちに「あなたの家族の救いのために祈ってください」と励ましました。
もちろん、私たちは家族の救いのために祈るべきです。とはいえ、私はその著者の聖書の解釈に同意することはできません。
パウロが言いたかったことは、「あなたがイエス様を信じるなら、あなたは救われます。そして、あなたの家族がイエス様を信じるなら、彼らも救われます」という意味です。
聖書の箇所の意味を理解するためには、その箇所だけを読むのではなく、その箇所に関係する他の箇所もすべて読むべきです。
例えば、コリント人への手紙第一でパウロはこう語りました。
もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。
そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(第一コリント7:15)
なぜパウロはこのように語ったのでしょうか。
なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。
また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(第一コリント7:16)
つまり、私たちは、自分の夫や妻がいつか救われるかどうか分かりません。だから、その人が離れたいのであれば、離れて行かせるべきです。
もし使徒の働きで、パウロが「あなたが救われるなら、きっとあなたの家族も救われる」と言おうとしていたのであれば、なぜパウロは第一コリントで「あなたの妻や夫がいつか救われるかどうか分からない」と語ったのでしょうか。
さらに、このエゼキエルの箇所では、神様はイスラエルを裁き、エゼキエルにこう言われました。
人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ―― (エゼキエル書14:13-14)
また、神様はこう言われました。
たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。
ただ彼ら自身だけが救い出される。(18)
この箇所では、神様はこのようなことを4回繰り返されました。「あなたは自分の義によって自分の命を救い出すだけです。」
そして、新約聖書によれば、私たちの義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。
パウロはこう書きました。
義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)
旧約聖書の時代でも、新約聖書の時代でも、そして現代でも、同じことが言えます。そして、私たち全員が、自分自身の決断をしなければなりません。
とはいえ、私たちには神様から与えられた責任があります。つまり、私たちは周りの人々のために祈るべきです。また、彼らに福音を伝えるべきです。
ただし、その後は彼らの救いを神様に委ねましょう。
私たちは自分の家族や友人が地獄に行くことについて考えたくはありません。しかし、それは私たちが決めることではなく、彼ら自身が決めなければならないことなのです。
それでも、次の質問を自分自身に問いかけてください。「私はできる限り、彼らのために祈り、彼らに福音を伝えているだろうか。」
