私は農家でも大工でもありません。それでも、この箇所を通して、私はぶどうの木の枝について学びました。つまり、実を結ばない枝は全く価値がないということです。
実際、私は「この椅子の木材はぶどうの木から来た」と聞いたことは一度もありません。
エゼキエルの時代、ぶどうの木が実を結ばない場合、人々はその枝を薪として使いました。それ以外の用途はありませんでした。
現代では、ぶどうの木には他の使い道があります。インターネットによると、ぶどうの木で花輪を作る人もいるそうです。
また、別のウェブサイトでは、ぶどうの木について興味深い情報がありました。その情報を読んで、なぜぶどうの木が他の使い方に向かないのかが理解できるようになりました。
それは、ぶどうの木の枝を切るとすぐにその枝が枯れ、割れやすくなるということです。
だから、神様はイスラエル人をぶどうの木の枝と比べられました。聖書の中で、神様はイスラエルをしばしばぶどう園に例えられます。
神様は、イスラエルが実を結ぶぶどうの木になることを望まれました。つまり、彼らが周りの国々に神様の栄光を表す存在になることを望まれたのです。
また、彼らが周りの国々に対して祝福となることを望まれました。
しかし、イスラエルの罪と偶像礼拝によって、彼らは実を結ばないぶどうの木となりました。周りの国々に光をもたらすことはなく、むしろ彼らのようになってしまいました。
命の源から離れたことで、彼らは枯れて、割れやすくなり、全く価値のない存在になりました。
そのため、バビロンが来て、彼らの都市、宮殿、神殿、そしてイスラエル人の家を焼き尽くしました。
私たちクリスチャンも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。
イエス様はこう言われました。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。。。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:4-6,8)
神様は私たちがイエス様にとどまることを望まれます。イエス様にとどまるなら、私たちは神様のために多くの実を結びます。そして、私たちは周りの人々に光をもたらし、神様がどんな方であるかを示す存在となります。
しかし、私たちがイエス様にとどまらない場合、私たちは枯れて、割れやすい枝となります。そのような枝では、神様は私たちを用いることができません。
それでも、私たちの救いが失われることはありません。
イスラエルが不忠実だったとしても、神様は忠実で、約束は変わりませんでした。同様に、私たちが不忠実であっても、神様の私たちに対する約束は変わることがありません。
ただし、私たちが悔い改めない場合、神様は私たちを懲らしめられるでしょう。
あなたはどのような枝でしょうか。実を結んでいる枝でしょうか。それとも、枯れてしまった枝でしょうか。
