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哀歌

悔い改めに至る悲しみ

哀歌

レミヤはエルサレムの没落の後に哀歌を書きました。哀歌の中に、エレミヤの深い苦しみが表れています。

第1章では、エレミヤはエルサレムを女王に例えています。その女王の主人は亡くなり、彼女は追放されてしまいました。

彼女が牢屋にいる時、苦々しい心を抱き、涙を流し続けています。なぜなら、彼女の恋人や友人が彼女を捨て、裏切ったからです。

哀歌を読み続けると、エルサレムの状態がどれほど酷くなったかが分かります。ソロモンの美しい宮はかつてエルサレムの誇りでしたが、それは略奪され、焼かれてしまいました。

さらに、エルサレムの指導者たちは殺されるか追放されました。お金持ちは貧しくなり、すべてのエルサレムの人々は飢えていました。どこを見ても、人々が命を落としていました。

だからこそ、エレミヤはこう言いました。「剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、幸せであった」(哀歌4:9)。

その結果、ユダヤ人たちは喜びを失い、深い絶望に陥りました。

けれども、エレミヤにとって最も辛いことは、主がエルサレムを捨てられたことです。神様はその宮と祭壇を拒絶し、エルサレムと戦って、その怒りによってエルサレムを滅ぼされました。

どうして神様はエルサレムを滅ぼされたのでしょうか。

彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのだ。(哀歌1:5)

だから、周辺の国々はエルサレムの没落を嘲笑しました。

しかし、この破壊と苦しみの中で、エレミヤの心には希望のオアシスがありました。

第3章では、エレミヤはエルサレムの状態について語っています。もしかすると、彼はエルサレムの状態を自分が穴に入れられた経験と重ね合わせているのかもしれません。

その時、エレミヤは苦々しい心を抱き、暗闇の中に住んでおり、逃げることができませんでした。彼は鎖で繋がれており、神様を呼んだにもかかわらず、神様は答えてくださいませんでした。その上、皆が彼の苦しみを嘲笑しました。

それでも、エレミヤはこう言いました。

私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(3:21-23)

エレミヤの希望はどこから来たのでしょうか。

それは、神様の変わらない愛と慈しみによるものでした。つまり、神様はご自身の民を裁かれましたが、彼らを完全に見捨てられたわけではありませんでした。彼らは苦しみの中で追放されましたが、なお生き続けていました。

だから、エレミヤはこう言いました。

主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。(3:31-33)

だから、エレミヤはその民にこう語りました。「自己憐憫に陥って泣くのではなく、むしろ涙を流す時には悔い改めなさい。」

彼はこう言いました。

夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。(2:19)

また、

生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。(3:39-42)

神様は私たちにも同じことを語られます。あなたの罪によって人生が壊れたために、希望がないと思うかもしれません。しかし、ただ自己憐憫に陥って泣いているだけでは、本当に希望はありません。

けれども、あなたが悔い改めるならば、神様は憐れんでくださり、赦し、癒してくださいます。

パウロは次のように書いています。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第二コリント7:10)

哀歌の結びにおいて、エレミヤはこう言いました。

主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。(5:21-22)

あなたが悔い改めるならば、神様は決してあなたを見捨てられません。ですから、死をもたらす悲しみに溺れるのではなく、むしろ神のみこころにかなう悲しみを抱きましょう。そうすれば、赦しと命を見つけることができます。

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